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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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ニーチェ


こんばんは、ミステイです(´ψψ`) 眠い。(笑)
あ、これは日記です。

最近、「超訳 ニーチェの言葉」(白鳥春彦編訳、2010)という新書を買ったのですが、


ニーチェ素晴らしすぎる(*´∇`)(*´∇`)

こういう風に、哲学の書物からうまく該当部分を抜き出す編訳者の腕もそーとーすごいっと思うのですが。
何よりニーチェのワンセンテンスワンセンテンスが響いてくる。

というわけで、そんな新書の中から引用をして、閉じます。(笑) 色々あった最近の私の身にも、等しく100年を超えて伝わることの、あれだなあ。

「すべての行為や運動は不死性なのだ。そして、どんな人間のどんな小さな行為も不死だと言えるのだ。つまり、実はわたしたちは、永遠に生き続けているのだ。」

同書より、頁数不明

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奇才!ニホンジン 1

奇才!ニホンジン 1
親切はよしてくれ

 ども、こんにちは、mistyです♪ 胃腸炎に(また)かかってしまい、腹が痛いことこの上なしですm(__)m
寝るだけ寝てしまったので、前から暖めていた事柄を書こうかなと思います(゜_゜)

「奇才!ニホンジン」と題しまして。
 特にひねりもないつまらないタイトルですが、そうです、ご多分に漏れず日本人の思想や行動を俯瞰・ちょいと分析してみようという事柄です@
 よくありますよね、一般書籍でも、「日本人ってなんだ?」とか、「だから日本人は~」みたいな本とか言説とか。

 そこで、数あるそれらの中でも、圧倒的に読みやすく且つ示唆に満ちたものと思われる、アメリカの人類学者ルース・ベネディクト著「菊と刀」(講談社学術文庫、2005)を基軸とした文章を、投じたく思っています。

 私的には、この菊と刀触れずして日本人思想を語ることなかれ、といってもいいくらいの、名著です。もちろん?な箇所も多々あるのですが、それ以上にこの論の明晰さと洞察の深さは看過できないものがあります。
「菊と刀」の構成を、軽く見ておきましょう@
(目次より)

第一章 研究課題-日本
第二章 戦争中の日本人
第三章 「各々其ノ所ヲ得」
第四章 明治維新
第五章 過去と世間に負目を負う者
第六章 万分の一の恩返し
第七章 「義理ほどつらいものはない」
第八章 汚名をすすぐ
第九章 人情の世界
第十章 徳のジレンマ
第十一章 修養
第十二章 子供は学ぶ
第十三章 降伏後の日本人

・・・こんな感じです。戦争や降伏というキーワードが使われているように、この書物はもともとアメリカ当局が太平洋戦争において日本を攻略するための一資料という役目を負わされていました(結局使われなかったらしいですが・・・)。 だから、第二次世界大戦を挟んでの日本人の行動とそれに対する分析も、第2章・13章をはじめ広く行われています。 考察の対象はそれにとどまるどころか、時代も古代から戦時に至るまで大変広く、しかもそこには一貫した論調があります。

 とりあえず「菊と刀」の紹介はこれくらいにして、初回の本論に早速入っていきたいと思いまふ($・・)/~~~
回に応じて他書物が時折参照されるかもしれません。

※ちなみに日本の思想学といえば、丸山眞男や和辻哲郎などがメジャー所。まぁ、ぼちぼち・・・笑


@親切はよしてくれ
a)
 第五章「過去と世間に負目を負う者」134頁に、こんな面白い記述があります。

([]内は筆者)
…たとえば街を歩いていて風に吹き飛ばされた帽子を、誰かが追っかけてくれた場合に、ほかのどんな感謝の言葉よりも好んで用いられるのは、この語[すみません]である。その人があなたの手に帽子を返してくれる時に、あなたは礼儀として、それを受け取るに当たってあなたの感じる内心の苦しみを告白せねばならない。…

 ベネディクトは「すみません」、すなわちこれでは終わりません、という語句に対応する英語として、Thank you, I'm gratefulという感謝の意と、I'm sorry, I apologizeの陳謝の意の二つを挙げています。そして、引用箇所の内心の苦しみを告白する・・・という、なんとも大胆な書き方をするからには、どうやら後者の陳謝の意味を大きく背負ったものとしての「すみません」を、我々は好んで使っている傾向があるらしい、とベネディクトは述べます。

 今ではどちらかというと「ありがとうございます」と感謝の気持ちを述べるほうが一般的ではないか、という気もします。しかし、私たちはありがとうという気持ちと同時に、何かしら悪いことを相手にさせてしまったと、どこか落ち着かない気分に時たまなることも否めない、というのが本当のところではないでしょうか。
 本論ではベネディクトが注目した、苦しみの告白という行為を対象としていきます。

b) 
 ベネディクトは先の引用文に続けてすぐさまこう記します。
(下線筆者)

…「この人は今こうして私に恩を提供してくれるが、私はこれまでに一度もこの人に会ったことがない。私はこの人に、まずこちらから恩を提供する機会をもたなかった。こんなことをして貰ってうしろめたい気がするが、誤ればいくらか気が楽になる。日本人の感謝を表す言葉の中では、おそらく『すみません』が最も』普通なき言葉であろう。私はこの人に、私がこの人から恩を受けた事実を認めていること、そしてそれは帽子を受け取っただけですまないということを告げる。だって私にはどうにもしようがない。われわれは互いに見知らぬ人間なのだから」。…

 内心の苦しみの告白というのはすなわち、見知らぬ人から思いもよらず恩を受けてしまったことに対して、ほとんど為すすべもない、せめて陳謝を言葉にして相手に伝えておこう、これくらいの意味でしょう。ベネディクトは、他人から何かをしてもらったことに対して、人が下線部のようなある種のうしろめたさを感ずることを、日本人独特の感性だと考えているようです。そしてそれは引用文中にもあるように、「恩と義」の関係に生きる我々という文脈の中で、もっとはっきりしてきます。これについては、「菊と刀」第六章の「万分の一の恩返し」がより詳細に述べており、ベネディクトもこの章でそれらを明らかにしています。この恩と義については、また別個取上げていきたいと思います。

c)
 そもそも、この章のタイトルは、「過去と世間に負い目を追う者」(=日本人)、でした。これはいったい何を意味するのか。

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田んぼが減った


こんにちは、ミスティです(●´∀`●)/ 毎日寒くて寒くて震えています(笑)

@田んぼが減った

(1)倉敷の田んぼ
 太陽がさんさんと輝いて、空も青くて、風が気持ちよくて、緑々とした稲が元気に育っている、そんな夏。こういう昼下がりを、自転車で駆け抜けていくのは、とても気持ちがいいものです。

 また、ちょっと気温も下がる頃、稲穂は実りをつけて、夕暮れ時の暁に染まる。 タハーという何とも言えない気分になりますな(*´∇`)
 私の母方のじいちゃんばあちゃんは農家でもありますが、仕事の合間にこんな四季折木々のちょっとした情緒を身近に感じていたと思います。

 実家は岡山の南、倉敷にあって、岡山平野と呼ばれる広大な平らな土地の上にあります。昔は家の隣はすぐ田んぼ、という感じでした。最近では、実家に戻る度、うちの近くがただの住宅街になっていくのを肌身に感じています。 あちらこちら、宅地になって気付いたら集合住宅やら一軒家が立っています。

…倉敷、いい所でしょ(*´∇`) ←違

 田んぼは、自然である所の山や海までいかなくても、かなりそれに近いです。確かに稲は、季節を通して刈り取られていく運命にはあります。でも、年をめぐってそれは繰り返される。私たちがご馳走さまでした、と感謝する限りにおいて、稲は無邪気な笑顔を見せてくれるような気がします。
田んぼにはそういった稲だけでなく、狭い通りに生えている野種だとか、水田の中にはオタマジャクシやタニシ、運が良ければタガタメなんかもいたりします。 秋に入ると、様々なトンボも飛びかい、夜にはコオロギやスズムシ達が鳴く。 そういった所では、田んぼの周りは、山や海に次ぐ第二の自然です。

 実家の話を取り上げましたが、倉敷でそういった田畑が減少し代わりに宅地やビルの立地が増加するのには、田畑では土地分の収益に見合わない、というのがあるのでしょう。
田んぼや畑の仕事には、ある種の特殊性があります。それは、巧妙な複雑さを要するということです。芋、などはそこまで難しくないでしょうが、稲作は難しいし、かなり手間のかかる仕事です。一期作でさえ、苗植えから脱穀まで、ありとあらゆる手間のかかる作業を連続させなければなりません。

 その手間のかかることを、労働生産性が低いという言葉が支配する。すると、たちまち耕作面積を広くすべきだ、いや機械化を図るべきだ、という考えになる。しかし、稲作の特殊性は、先に述べた通りに巧妙な複雑さを持っているので、機械が完全に入り込むには限界がある。また、日本の平野は山林区域と比べて狭いわけです。
 ならば、ある土地の使い道を考えた場合、そういった労働生産性も低いし収益も上がらないような田んぼを増やすよりは、賃貸として機能させたり、要するにもっと効率の良い他の方法を採用するのでしょう。その連続の結果が、田畑の随分減った倉敷の現状だと思います。

(2)効率化の先
 少しここで、田んぼが減ったことに対する人々の心象風景を考えてみます。
 先ほども言ったように、田んぼもまた人間が和気あいあいと触れ合えるような自然の一部、と言いました。そういった場所がどんどんなくなり、代わりに住宅やビルが建ち並ぶわけです。 ほんのささやかな、植木やガーデニングのみが、自然、しかも相当人工的な自然に触れることのできる場所となります。
ところで、私たち日本人はご飯を前にして、手を合わせて「頂きます」と言います。「食べます」ではありません。そして食事を終えた後は、「ご馳走様でした」とまた合掌していいます。 これには、自然の恵みへの感謝といった、たいへん日本人らしい美しい情緒が見てとれます。食べ物に頂きますと断っているのです。
小説家ランディは、この食べることを、彼女らしくユニークにこんな風に語ります。

…私は他の命(植物や動物)を食べて、そして自分の細胞を総とっかえしながら生きているのではないか! と。身体というものを通して、私たちは他の生き物を取り込んで生きている。一日もおこたることなく食べ続ける。身体とは、そのようにできている。食べないと死ぬ。…

〈田口ランディ「できればムカつかずに生きたい」161頁(2005、新潮社)〉

 田んぼの稲も畑の野菜も、同じ生物という点においては人間と全く同じです。でも、私たちも何か体内に取り込まないことには生きていけない。彼らの命への感謝を頂きます、という言葉に託して私たちは毎日毎日言っている、そう思います。

 さて、上のような一見当然のように思われることでも、田んぼを失った場所に住む人々は忘れることはないのでしょうか。かなりあやしいと思います。欧米的な均質性を備えた植木は、自然にそこからある訳でもない。ガーデニングにしても、全く自ずから育っているわけでもない。
 張られた水中に住む虫達と遊んだり、暁に映える稲穂に目をやったり。少なくとも子供の私にとってはかけがえのない時間と空間だった共有性は、今は残っていません。そして、そういった時間を持たなくなるのは何も田んぼ仕事をやっている人々だけに限らず、帰り路の子供、散歩する大人にも言えることだと私は思います。

(3)幸福のカタチ
 効率化の先は、また人それぞれの幸せだと思います。しかし、効率化による幸せがあるのなら、非効率的な幸せもまたあるのでしょう。お互い、優劣は付けられない外です。だけど、非効率という言葉は、まるで害虫のようにマイナスの響きを持たされています。効率的であるということが、さも絶対に正しいかのように。だが果たして本当にそうなのでしょうか?

 先ほどの例でいうと、地道な手作業の多い稲作仕事や、田んぼの周りの自然へ思いを馳せるといった事柄は、前者でいうと労働生産性が低い(ゆえに機械化を図るべきだ)、後者でいうと、時間の無駄、という意味ではたしかに非効率かもしれません。
でも、非効率的だからといって、それらは淘汰されるべきなのでしょうか。

 農家を営んでいる人達は、ものすごく元気です。私のじいちゃんばあちゃんがいい例です。お互い70を過ぎても、相変わらず受け継いだ土地に朝早く起きては向かう。地道作業に涙することもなく、いつも元気いっぱいです。ちなみにじいちゃんばあちゃんは、お互い農作業以外に会社勤めと高齢介護にも携わっています。なのに元気は枯れない。まるで、田んぼの稲と同じように、太陽や風などから、パワーをもらっているみたいです。

 私は、実体験があるので、農作業というのは大変だけどとても幸せな仕事だと強く思っています。収益が低かろうが、手間がかかろうが、あまり関係のない事柄です。

 効率化の名に蝕まれている社会を生きる私たちにとって、「効率的か非効率的か」の判断枠組みも、また一つの広い意味でのイデオロギーと捉えるのは、マイナスではないように感じられます。人に、こっちのほうが効率的でしょう?て言われて、「うーん確かにそうだね、でも…」と曖昧に受け答えすることがよくあります。この「…」の沈黙の部分に、効率化ということだけでは図りきれない、別のカタチがあるのだと私は感じています。


でわでわ、
ミスティ @

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芸術娯楽二分論 1

芸術娯楽二分論 1

第1章「芸術」の枠組み

第1節
途方もない問いかけ

(1)娯楽産業の枠組みを排して 

 およそ「~とは何か」という問いかけは、飛来爆弾を目の前にするようなものである。考えた所で何も知り得ないから、とりあえず逃げるしかない。そして、被爆が続く限りは、代替案を考えるのが普通であろうと思われる。

 私個人の話をすると、「音楽って何だろう、芸術って何だろう」という途方もない問いを、とにかく自己でよく反芻してしまうのだ。被爆にあいつづけるのである。この質問に対する正解(ないし真理)など、おそらく存在しない。正解の存在を肯定するにせよ、ちょっとの思考と生の実体験からでは到底それの域にたどり着きそうもない。そこで、時には友人や音楽業界に携わっている方とお話ししてみたりもする。

 私の自己哲学的な思索の生産性などは、皆無である。そこで、「~とは何か」という問いの形をまず変えてみる、というのが、普遍的でかつ有効な手法であろう。


 本論ではさしあたり、娯楽(娯楽「産業」)との距離感を実質的に考えるのが大きなテーマとしてあるので、「娯楽とは違う・異なる芸術とは何である(べき)か」という形に転換しておく。しかしこの問いは、娯楽とは何か、といった(同様に飛来爆弾的な)問いも同時に含んでいることを示唆することにはよく注意しておかなければならない。


(2)ステージという区切り

 少し話を変えて、ステージという場の持つ機能や意味合いを考えてみたい。

 絵画や造形物の展覧、音楽の披露などが催される時、多くはそこに日常空間とは異なる「場」が設けられることが多い。美術館や博物館、アートギャラリー、武道館やコンサートホール、ライブハウス… 大規模なものから小規模なものまで、高度で複雑化されたものから実にシンプルなものまで。 芸術作品・形態にアクセスしようとする時、周りを見渡せば、日常の場とは区切られ特別に設定された空間がよく目につくのである。

テントでの劇の性質を考察する桜井1頁は、次のように述べる。

…テント芝居の重大な関心事は、いつも〈場所の領有〉の問題である。たとえ数日間であろうと、屋根を架し周囲を幕で囲えば、その場所は領有化された空間となるのだ。…

 具体的な事例をもう1つ上げておくと、音楽の演奏場所の多くには必ずといっていい程段差が存在する。それが低いものからものすごく高いものまで形は様々だが、基本的にはその段差によって設けれた、「高い」場所の方にステージが作られ、観客スペースと区別される。
 この段差の必要性の1つには、たくさんの観客がいる中、ミュージシャンを観やすくするといった理由も大きいに違いない。だが、本当にそれだけであろうか? 

 ごくたまにではあるが、ほとんどないといっていいくらいの、取ってつけられたくらいの段差や、たまにはそういった演奏家/オーディエンスの場の区別が全くされていない会場も例外的にあるのだ。これは、一体何を意味するのであろうか?
桜井1-2頁は続けて、こう述べる。

…だが、テント芝居がテントという〈劇場〉を必要とする以上は、その場所がいかなる性格のものであろうとも、そこに新たな公共空間を創出してしまうことになる。たとえば、その場所が個人所有の私有地である場合でも、そこはテント劇場という公共空間に変わらざるをえない。(中略)その異質さは、緊急避難場所としての段ボールハウスと似ているが、それが〈私〉的領有でなく、新たな公共空間という領有性を持つという意味ではかなり違っている。…

 「音楽って、演奏家と観客のコミニュケーションなんです」ということを、たまに耳にすることがある(たいていは一流のアーティストの発言や、その業界に長く携わってきた人のそれなどである)。 桜井2頁のいう「新たな公共空間」とはたとえばそういった、アーティストとオーディエンスの一歩進んだコミニュケーションの場所故の公共性、ということも含んで語っているのかもしれない。しかし私は、個人的にはステージってそういう場所なんだ!と実感の境地に至ったことは未だなく、従ってこの読みが正しいのか間違っているのかは分からない。 
 しかし、括弧2で見てきたことではっきり言えるのは、私たちは芸術といわれるものを披露する時、ほとんどがステージという場所を設けて、何かしら日常とは違う位相でそれを行ったり観たりするようである。

(3)途方もない問いかけ 

 重商業主義、という言葉がある。あの有名な政治家コルベールが、フランス王政後期において、国策の最優先事項として、国内商業を活性化させる立場などが、それとして言われたりする。

 昨今の音楽業界では、商業化の流れの勢いは益々激しくなっている。大衆音楽の中でも、一昔前はCDやレコードの歌い手となるのは、厳しい世界を勝ちぬいた演歌歌手、歌謡曲を歌うごく僅かなアイドルに限られていたものが、各芸能プロダクションは競うようにして自事務所が抱えるタレントを歌手としてデビューさせたり、また80年代のバンドブーム等が大きな流れとなってそれまでアンダーグラウンドに居続けたバンドも、よく表舞台に登場するようになって久しい。

 日本社会は、第1・2次産業の大きな飛躍と確立を見た。それを土台とし、80年代からはサービス業をはじめとする第3次産業の分野の中でいかに戦えるかという点に経済実務の注目が移行した。 その中で、音楽は娯楽産業の圧倒的な流れに不可避的に出会ったりした。

 それがどんな事態を引き起こしたかはまさに目の前にある事柄なのだが、これを一言で表現するのは難しい。しかし、敢えて言うとすればそれは「音楽の混乱」だと、私は肌身でいつも感じている。

 そこで、これからしばし長きに渡って、いくつかの視点から音楽のみならず芸術一般の現状と、あるべき姿を考えてる。途方もない問いかけに対しては幾人もの人が思念を費やしてきた所では、ここではあくまで娯楽産業から排される・もしくは排されるべき芸術とは何なのかを実質的に考察する。


(注) 参考文献
桜井大造「変幻痂殻城」『HAN 第2号』(白順社、2009)


ご感想、ご意見お待ちしてます(*´∇`)

ミスティ @





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だから九州人はダメである


朝早くから…おはようございます、ミスティです。 ゼミ発表のためのいい資料が大体やっと見つけられてしかし、執筆提出期日まで残り僅か…ピンチな僕です。(笑)
今あまり頭が働いていないので、コーヒーブレイクでエッセイを投入します。
こんなタイトルで、内容も結構過激です。(笑) 地元が九州のかた、どうぞご感想を(笑)(笑)
本トは芸術論1を投稿するつもりだったんですが。

@だから九州人はダメである
ほんっとに、ダメ。(笑) すごい書き方をすると、本州人および四国人からしたら九州人は使いづらい度ナンバーワンといっても過言でない。それ程、彼らは異質であり、かつダメである。(笑)(笑) ※ちなみに九州人というからには、年配の方だろうが小学生であろうが、とにかく九州地方に10年間以上浸かった人全てを名指しています。(笑)※
具体的に何をもってダメ出しをするかというと、彼らの精神性において、そのフレキシビリティさにあまりに欠ける、所。分かりやすくいうと、融通が利かない。変なところで、他者に対して自己中心的。そして極めつけは、彼らは身を寄り添うようにして九州人同士固まって生活をしているため、外部からしてみれば甚だ迷惑極まりないのである。(笑)

まず、最初の融通がきかないという点に対して。これは、良く言えば、九州男児、という言葉がよく表しているように、心の中心に揺るぎのないものをずしんと据えている人が、九州地方には多い。
外見上は、本州人及び四国人と何ら変わる所のない人でも、ひとたび内側を除けば鉄の固まりのようなズシーンとしたものが構えている。 もちろん、その鉄の色は、(九州)人それぞれだ。淡い柔らかめの色を持つ大学生もいれば、赤くて凛とした色を持つ社会人の方もいる。
だが、彼らは往々にして、人情に基づく文化社会を全面肯定する。というか、それを疑問視さえしないきらいさえこの現代(社会制度が欧米・西欧よりである日本は、科学的思考や手法が1番妥当しており、従って「人情」といった科学とはおよそ相容れないものを基軸に据えた社会などまずもってダメなはずだ。アメリカ社会のように、人情が補完的に働くならまだしも)にあっても見受けられる。 人情ありきでしょ!みたいな。 それは別に構わないのだが、1番困るのが、その人情というのが(実は)九州人各々の捉え方で違っているのだ…。そして、九州人同士はあまりそのことに気が付いていない…(気付いていても、まあそれはいいっかあー(*´∇`)みたいな)。 みかけは同じに見えてもちょっと掘り下げたら統一すらされていないのか…。
次に、変な所で他者に対して自己中心的である、について。
たいがいは、九州人は、日本は九州と沖縄とあと東京(のみ)から成るものだと思っているらしい。他の地域が意識の外に置かれていることが少なくない。しゃあない。だって、それぞれの日本としての規範を擬制した、商業や関西文化の中心街大阪、伝統と歴史を担う京都、んで政治や経済、また生活ブームの中心である東京等からは、いっちばん遠くの場所なのだ。
航空整備や全国統一型メディア社会が普遍するまでは、もの・ひと・かね・情報の伝達がまあおっそいおっそい。 福岡は九州の東京であるというのは正しいどころか、真理とでさえ思ってしまう程である(福岡も東京と同様に、あらゆる産業や文化が集中する都市圏としての機能を担う)。

話はだいぶ逸れたが、まあ今は全国的にいろいろ均質化してきてますから…というのはあるにせよ、ココロというものの均質化はなかなか起こりにくい。そして、九州人は日本は九州と沖縄、そして(基本的にディズニーランド(←千葉)か新宿・渋谷を指す)東京から成っていると思っている。なので、ちょっとした悩み相談でも、どーしても彼ら「固有」の意見とか考えしか出てこない場合が多い(私的に)。 それはそれで構わないんだが、違うアドバイスを求めて、この人は多角的な視野からアドバイスしてくれそうだ、と思って話してみたらおやまあほとんど変わりない!(苦笑) 根っこのトコが、共通みたいである。無理する主義、とか、縦社会に一段とこだわる(九州独自の縦社会である)とか、「結局それはお前の人情がないからだよ」論、とか。あ、あと、意外に他者のことを気にしていない、だとか。(爆)なにかしら、共通するものが見え隠れする。それを以て私は日本人とは言わず「九州人」と敢えてここで連呼してます!(笑) その根っこは、世界中のみんなが持っているものではない、んだよ…(切なる魂の嘆き)
最後に、九州人はたいがい九州人と固まる、というのはとりあえず仕方ない。同じ風土性や性質性を持つ者同士が結託しやすいという説は、わりと正しい。が、何が面倒いかというと、根っこは同じで、でも枝葉は個々様々なのだ。そして、彼ら自身は彼らのそういった内面をほとんど振り返らない(疑問視しないし、そもそもアイデンティティーって何ー?と真面目に訊かれるのだ…)、そんな人種の、集合体。(笑) これに、一介の岡山人が触れると、選択肢は2つしかない!完全に彼らに包摂されるか、はたまた除外というサンクションを受けるか(どちらの選択肢をとっても、九州には文字通り「九州」人しかいない)。 彼らと、さりげない緊密を持つ関係性を作るのが、いかに難しいか、ここに来て重々思い知らされる。 いや、これは逆で、私の方が異端なのだろう。

私の人間関係の基本は、「狭く深く」。もともと社交的でもないし、でも人好きだから浅い付き合いをされると何だか寂しいからデス。でも、いろんな場所に住んでる人や異なる文化・生活・言語圏をバックグラウンドに持つ人と、いやがおうにも交わらないといけない環境では、「広く深く」はとてもとても不可能!できる人は人間性が優れた、ごく一部の人だと思われる。。
九州の人は、たぶん、狭く深くという言葉に説明されるまでもなく、…な。なんか、なんというかそんなカンジなのだ!(笑)そしてそれをあまり疑問視しない。広く浅く、の人間に接しても、「なにあげんしとんとかねー(ふっ)」で終わる、のである。(笑)リアルに。私自身のリアルなのだから、これもまたしょうがないといえばしょうがない。(笑)

最後に言うまでもないが、こんなこといちいちエッセイにするのは多分私もたいがい九州と、九州にいる人が大好きなのだろう。ココロの問題という現代的な現象に関してはもうちょい分かってくれたらな、とは思うのだけれども(笑)、それでもやっぱり九州人は好き。あとこれ、別にフォローでもなんでもないので(笑) さらっさらフォローに回る気すらないし、好き嫌いとダメ出しの話は別です。(笑)
僕は、九州人が、九州から出ることを知ると、いつもその人に言います。

「ホントに気をつけて!(外は異国文化だらけだから)」

ミスティ @

PS 九州だってよく観察すると、内部ではいろんな文化や精神性が…
それは、そうでしょう。どこでもそうでしょう。北海道だろうが、関東だろうが関西だろうが四国だろうが。
ただ、根っこは、福岡・沖縄・鹿児島・熊本・宮崎・大分・長崎にて同じであることが主観的ながら確認済みデス!
県制度でいえば、あと佐賀の人だけだ(´∀`)

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芸術娯楽二分論 0

こんばんは、ミスティです。(*´∇`)

芸術娯楽二分論 0

はじめに

はじめに
 この一連の記事では、世の中であーだこーだ言われている「芸術」と、それから「娯楽」、及び両者の関係を考察する。 目的は、芸術とはこうだっ!とか、はたまた娯楽とはこうなんだっ!という、両者の本質を追及することではない(およそそういった真理の模索というのは、1人の人間がたった10年とかそこいらで成し遂げられるようなものでもない)。

 そうではなくて、芸術と言われているもの、娯楽だと言われているもの、お互いを一応区別することで、そのすみわけを考えることからどれだけ有益な考えや議論ができるかを追及することが、この芸術娯楽二分論という長ったらしいタイトルの記事の、目的である。
 芸術と娯楽は、よくその境目が分からなくなる。そしてその境目が分からなくなった時に、困ることがいくつかある、と私は思っている。その1つには、およそ産業とか経済の世界が抱える事柄があるだろう。

 例えば、日本の音楽界に、「相対性理論」というロックバンドが存在する。彼らは、06年に結成され、私たち音楽消費者の目の前には08年頃からその顔を見せ始めた(注1)。 
 まだ積極的な活動開始から4年足らずということもあり、あまり多くの人には知られていないアーティストである。聴いたことがない方にはネット検索で彼らの曲や動画でにでも触れて頂けると彼らの曲のカンジがつかめるので、幸い。

 彼らのリリースする楽曲達は、実に不思議なのだ。サブカルチャーにカテゴライズされるいわゆるアニソンの要素がかなり(しかもたぶんに意図的に)含まている、と思いきや、バンドとしての演奏が上品で巧いな、と純粋に思わせる所もたくさんある。

 ここに、「芸術」という名の箱と、「娯楽」という名の箱の2つがあるとして、相対性理論の曲群をいずれかに振り分けないといけないとしよう。 例えば彼らの代表作「LOVEずっきゅん」(アルバム『シフォン主義』(2008、みらいレコーズ)に収録)の、アニソンのようなエンターテイメント性を重視すれば、おそらく「娯楽」の箱に入る。それか、演奏の技巧性や音作りを重視すれば、「芸術」の箱に入るだろう。 はたまた、どっちも欠かせないからということになれば、この曲は分身でもするのであろうか。

 上のような例え話それ自体は空想以上の何の重要性を帯びないが、しかし、相対性理論が放つ「これは娯楽か、それとも音楽作品なのか?」という問いを実質的に考えることには、それなりに意義がある。それは、両者が持つ圧倒的な性質の違いからくるものである。芸術と娯楽はある面ではかなりの共通項を有するにしても、違う部分もたくさん見受けられるのである。 例えば、芸術はその性質上、窮極的に自身の美しさだとか完璧さだとかを志向する。もちろん、芸術と今日呼ばれているもの全てではないが、一般的にはそうなのである。 これとは対照的に、娯楽と呼ばれるものは、普遍性だとか世俗的かどうかだとかを志向する傾向にある。
 これを鑑みると、相対性理論の楽曲が娯楽の分野にからめとられるとすると、演奏の綺麗さとか音の独自性だとかの要素は捨象されることになる。反対に、芸術の分野にのみからめとられるとすると、大衆性だとか歌のキャッチー性だとかの要素もこれまた軽視されがちになる。

 以上は両極端な説明ではあったが、要するに「芸術」と「娯楽」の隣接点を曖昧にしておくと、あるものがどう社会的に捉えられどのように移行していくのか(例え話では、相対性理論というアーティストの曲群の、行く末)、といった現象が見えにくくなるのである。
 相対性理論は、昨今の一部の音楽家達の間に共通して見られるように、テレビやコマーシャルといったメディアへの露出があまりない(それでも最近わずかながらその神秘性が解かれてはいる)。 すると彼らはどちらかというと芸術志向なのか、それとも…? 一例をとっただけでも、芸術と娯楽をいったん区別しておいて、それからある現象を考察することの意義はあるように思われる。

 さて、芸術と娯楽の二分、といったが、それぞれが具体的に何を示しているのかも、一定程度述べないと全体像が見づらい。 これに関しては、本論に入った以降触れるが、ここでは簡単に「芸術=音楽、絵画、学術、文芸等の、文化や文明に資するもの」、「娯楽=遊び、楽しみ、快楽、癒しといった、日常生活に資するもの」としておく。
 ここではまた文化/日常、の区別が問題となるが、それも本論で触れる。


…おおよそは、このような雰囲気で話が進められていくことになると思います。だけんれども(笑)、私は「だから芸術と娯楽は区別すべきなんだってば!」「そもそも区別するべきでない!」とかゆう強い主張とかを、長く述べるつもりではありません(というか、どう考えるべきなのかは知らない)。繰り返し述べるように、一応世の中でも区別されている両者をじっと観察した時、そこから何が社会的に見出だされるかを考え、時に問題提起だけホイッとしようと思ってます。

大体が、この両者の関係なんてのを観念するのが難しい。(笑) 気長に、見守ってやって下さいまし。
まずは、芸術の方面から見ていこうと思います。
ちなみに、はじめにで扱った「相対性理論」のお話は、今後出てくる可能性はおよそゼロに等しいと思われます。(笑)


(注1)相対性理論のバイオグラフィーや作品等の詳細については、彼らのオフィシャルサイトを参照。本記事では、携帯からの投稿のためオフィシャルサイトのソース(アドレス)の提示を省いた。
相対性理論公式サイト http://mirairecords.com/stsr/ 

今回は、ご感想お待ちしています。(笑)
ミスティ @

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予告

なんという時間…こんばんは、ミスティです。汗

昼寝をしたせいか、眠りたくてもなかなか寝付けず…。軽めの本を一冊読破しても飽きたらず(笑)ということで、深夜に投稿いたします。



このブログの体裁にだけ重要なのですが(笑)、いちお「予告」なるものを形だけしておきます。

えー当該ブログ「フルハウスの嗤い」の中心は、メインのはずの「音楽等の芸術を分析することで、現代社会のあるべき構造を模索する」というテーマ、でした。。苦笑

これから、若干違うテーマにはなりますが、少なくとも芸術に関しての一連の考察を記事として投稿したく思っている次第であります。



思えば芸術というカテゴリで現時点で投稿されているものはただの1つ… しかもとても個人的な内容。(笑)

自分が文字を通して何を伝えたいのか、どんなことを問題提起していきたいのか、という事柄に関してこの3か月くらいうだうだしていました。要はそれがある程度見えてきたので、真面目に始めますということです。



自己言及にしかならない怖れがかなりありますが、とりあえず以下の3点だけこの日記に書き留めておきます。 ごくたまにレファレンスするかもです。。

その一、 10年1月9日より投稿される一連の記事は、「芸術娯楽二分論」と名打っておく。いつ終焉を迎えるかは今の処全くの未定。

その二、フルハウスの嗤いは、一に掲げた「芸術娯楽二分論」と名指される記事以外にも、今までと同じように、いきなり格差社会批判てどうよだとかiPodにまつわるエセ社会学だとかをミスティが自分勝手に投稿します。まあ、もともとが独りよがりな性格の筆者で、大体このブログもいい加減どころでは済まないのも、ちょっと眺めたら分かり…ます…(_´Д`)ノ~~ 汗 (笑)



その三、「芸術娯楽二分論」では、筆者が勉強不足ゆえその都度勉強しながら話を進めていこうと勝手に思っています。だから投稿のタイミングも不定期で、さらには内容の一貫性も担保されないという酷い事になりうることを予め断っておきます!



えー。

リアルに自己満に浸るだけに終わるような、スペースにならないことを切に祈りつつ。



それでは、ゼロ(はじめに、定義の問題について)よりいきます。 あー心配だ。



ミスティ @

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貧困社会って、本当にだめなのか?


 あけまして、おめでとうございます、mistyです(*^。^*)
僕のノートパソコンのネットの接合部分がたぶん壊れてしまっていて、だから友達のPCから久しぶりにワイドな画面(笑)でネットを堪能する。 
 年明けてから一発目の投稿は、なんとも・・・な感じになりそうですが。。笑


@貧困社会って、本当にだめなのか?
 について。冒頭からなんですが、実は自分が真に物的貧困に遭遇したことがなかったり、手持ちの資料も特にあるというわけでもなかったりします。ゆえに、上のようなことをあーだこーだ言っても所詮は机上の本当の「空論」と化してしまうでしょうが…(・・;)み、みなさんも一度くらい、格差社会の是非についてうーんと思索を張り巡らしたことがあるでしょう?笑今回は、共産主義(ないし社会主義)から提起される批判と世界の歴史の整理、次に現状を再確認してから、最後に資本社会の前提である人間像の妥当性についてちょこっと述べたいと思います。
 むしろ、みなさんがどう思っているのか・どう考えるべきなのかを聞きたいくらいの気持ちでいきます。(笑)

(1) ユートピア思想
 たとえば、現・日本共産党のポスターの宣伝文句はこれ。

「貧困をなくし、平和な社会と日本へ」

 後半部分は、分からなくもないです。日本は憲法前文でも平和主義を採用しているし、それは国内のみにとどまらず国際関係において見出されるべきものだと思います。
 前半部分は、とりあえずは日本の現状の資本主義社会が生み出す貧困・格差問題への反発、と捉えて構わないでしょう。歴史的にも、まず近代以降資本主義が世界を席巻し、それに対抗する形でいつも共産主義や社会主義があらわれてきたし。
 資本主義の一応の定義は、始原的なものですが「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」という、マルクスの提唱したものからでいいでしょう。定義から内在的に、少数の資本家と多数の労働者というピラミッドに似た上下構造を付随していることを読み取ります。
 歴史の沿革から見ても、基本的には、労働階級(=下流階級?)の方からの貧困層の流出が顕著になる。反旗を翻す形で共産主義や社会主義が台頭するのが、歴史上の共通項のようです。



 というか、私は共産主義の掲げる平等思想・平和思想そのものはかなり好きなんです。(笑)ユートピアとゆうと、イデオロギーの言葉と等しく、ある何らかの背景を既におっていると前提されがちですが、ここでは単純に理想的、ぐらいに。人格みなが等しくて、給与も一律に等しい。 むしろ人間社会が目指すべき窮極の社会観が「共産主義」であるとさえ思っています。
※歴史の時間的進行性を踏まえて、共産主義は、民主主義・(自由主義)・全体主義・自由民主主義・社会主義ときて、「次」に来るべき新たな社会の体制、という風にみる見地もあるみたいです。※  ただ、ロシアの革命や東欧・中国等のそれは、早すぎた共産主義の到来としてあった。
 共産主義と社会主義の実質について高校世界史レヴェルの知識しかない私が思うのには、
 
まずもって、この主義が実現されるためには、まず人間一人一人がものすごい善のかたまりそのもにならなければならない。加えて、みんなが同じエネルギーで現状(資本主義が一般に各国を席巻している)を打破しなければならない。この2つの圧倒的なエネルギーを誇る制約が、今のところは資本主義をどう組み立てなおしていくか、で経済の議論のほとんどがそれを中心としている大きな原因だと思います。

 文明が発展しても人間は発展するとは限らない、とは言われますが、まぁ実際あと300年くらいあったらできないこともない・・・? このへんはよく分かりません。


(2)貧困社会=格差社会の平等性

 とりあえず、日本や、「社会主義や人民主義を採用していない先進国」内で貧困や格差の問題が訴えられているのは、当該社会が資本主義であることに異論はあまりないハズ。
 (修正されたものであれ)資本主義は、貧困をどんどん生み出す機械みたくなっているじゃないか?

と。
しかし。

貧困社会=格差社会そのものは、極めて平等な社会なのでは?(-"-)
 なんかと僕は思ってしまうわけですが。これはどーなんでしょうか。
 現実をどー見ても、昨今の議論の中心にあるのは、格差社会=絶対悪、と捉えてそもそもの体制批判をするというよりも、格差社会それ自体はいったん是認して、その運用の在り方を巡ってあーだこーだと言っている処にないですかね?(´ψψ`) 以下は、あくまで私の頭の中(だけ)にある考えでが。
 格差社会というのは、大変合理的な人格観を前提として、構築されている。むしろ、非・格差社会こそが、不平等社会に他ならないのでは。かつての、ソ連での市場政策が、歯が立たずついには一国の滅亡という事態を引き起こしたように。


***いったん筆休め***
もちろん、上に述べたように、日本に見られるような格差社会は、その社会の運用状況に解決が施されるべき問題が数ある、と私は思っています。だから、以下では格差社会の是非云々の話ではなく、資本主義をベースとした格差社会が前提としている、人間像の妥当性について、ほんの軽く検討します。


(3) ものさしと均一化

繰り返し述べるように、以下の記述はマルクスやケインズの概念に厳密に沿ったものでもありません。かなり手前勝手なイメージです。
まず、括弧1でゆったように、少なくともマルクスの定義から直接資本主義の構造を引き出す見地に立つと、そこには少数バーサス多数の、ピラミッド型の競争社会がモデルとして置かれてあることを読み取るのにそう無理はありません。 さて、近代社会科学たるところの、近代法や経済は個人に何を与えたか。

共通項としてあるのは、「画一性」ないし「均一性」です。法律は「人」を一律的に定義し(私権の享有は出生にはじまる、年齢20歳をもって成年とする等)、経済は合理的モデルを「人」に求めました(家計の効用最大化行動、企業の利潤最大化行動等)。

(個)人の概念そのものについては、それこそ10人いれば「人って、こういう生き物だ!」と10通りの返事がありそうなもので、要するに多元性を帯びているだと私は捉えています。
だが、個人が上下に動く競争の中では、当然に法や経済などの、社会に馴染む為、個人を何らかの形で固定化するものさしが必要となってきます。そこで、本来多元的である彼らにいろんなものさしを使用する。そうやって、ヒトの画一化・均一化がなされます。 男性/女性の峻別、年齢に基づく役割の振り分け、労働力による差別化…。
そうしてようやく歯車は擬制され、みなが動き出すといったイメージ。歯車が止まった時用の交換制度、各歯=基準測定、の移り変わり等等が制度運用の問題、か。

想像も構想もこの上なくシンプルで、少なくとも景気を考える上には「悪くはない」、概念。


しかし、先ほどもいったように、私の人間観としては、本質的にバラバラ、(だからいいんだ・サラダボウルみたく)だというのがあります。だから、もともと異質なものを画一化ないし均一化しようとする分、その歯車やものさしの測定つまり「個人の何をどのように図るのか」という事柄に常に焦点が合わせられなければならない。
けど、「この歯の図り方はダメだ!」(例えば、所得財産に応じて参政権を付与していた帝国憲法制定初期の男子選挙への不満)と言って、一度使ったものさしで運用させた歯車をまたいちいち図り直して修正するのも、面倒=社会の安定性を重視する立場やコストの見地からは、問題。 ここで悩ましいのでしょう。

ということで最終的にはものさしの話になりました。笑 あの、最後に何ですが、最近古本屋でよく見かける、三浦著「下流社会」(2005、光文社新書)。これを読み終えて、個人的には斬新な視点でものすごく面白かったというのが感想なのですが、本書では今の日本社会に総じて「足りない」ものとして、人生への意欲がない、とか述べていて…

゛意欲゛とはこれまた、どう図るのかと思いきやそこまで踏み切った検討でもなく(ほとんどが独自のアンケートや意識調査に基づく数字によるもの)。。

書物として読むには面白いけど、到底これ1冊では新たなものさしへの提案にすらならないだろうな…などと思いました。
貧困を自動的に生み出す格差社会って、実のトコロどうすればいいんだろう。

ミスティ @

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伸びる身体、広がる意識(2)完


(3)伸びる身体、広がる意識
 話を少し変えて、はじめにまず鷲田による身体論を簡単に記述しておきたい。 全体としては、身体というものがいかに意識によって作られた産物であるか、という謎なぞみたいな話ではある。しかし、力点はアイデンティティをめぐる問題、生と死をめぐる問題、そして他者と生きることの何よりの大切さ、等に置かれており大変示唆に満ちている。
 以下、そのほんのごく一部だけを簡単に引用したい。


…身体とは皮膚に包まれているこの肉の塊のことだ、と、これまただれもが自明のことのように言う。が、これもあやしい。たとえばけがをして、いっとき杖をついて歩かなければならなくなったとき、もちなれぬ杖の把手(とって、括弧付引用者)の感触がはじめは気になってしようがない。が、もちなれてくると、掌の感覚は掌と把手との接触点から杖の先に延びて、杖の先で地面の形状や固さを触知している。感覚の起こる場所が掌から杖の先まで延びたのだ。同じようにわたしたちの足裏の感覚は、それがじかに接触している靴の内底においてではなく、地面と接触している靴の裏面で起こる。わたしたちは靴の裏で、道が泥濘(ぬかるみ、括弧付引用者)かアスファルトか砂利道かを即座に感知するのである。…
 
鷲田清一「悲鳴をあげる身体」(1998、PHP研究所)


 早いが話、ジャンプ漫画「ワンピース」の主人公ルフィのゴムゴムの実の写実を想像してもらいたい(びよよーんと腕が伸びるあの姿である。)鷲田はこのテクストでは杖や靴をあげ、杖をつく際は掌が杖の先までびよーんと、靴で歩く際は足裏の皮膚から靴の裏面までびよんと伸びたりすることを述べる。感覚体である所の身体を前提におくと、無理のない解釈だ。
 他にも、例えば朝起きた時は普段の身長よりも少し高くなっている。到底届きそうにない戸棚の中のグラスを取ろうと、気合い入れてうーんと力を入れると、腕がホントに伸びるような気分になる。

 往々にして私たちの身体は、場合に応じていろんな箇所が伸びていくみたいだ。

 意識も、似たような所がある。普段は、意識や心と言われるものは、脳かもしくはハートと呼ばれる内側・インサイドに、あるものと思っている。しかし、空想やだんまりにふけっていて、誰かから呼び止められた時、私たちはよく「はっと意識が戻った」とか言う。戻ったとはさしずめ、どこかに行っていたのか。例えば、「また旅行に行きたいなー」と思ってふと空想の世界に遊ぶ時、その空想上のフィレンツェに「わたし」の意識は確実にその間飛んでいるのである。
 家出る時本当に鍵しめたっけなーとか、明日の京都旅行では、どこの寺から巡ろうかなーとか思っている時、私たちの意識は脳とかハートとか呼ばれるものから外に出て、その家や京都まで広がっているとも言える。

 どうやら私たちの身体や意識というものは、この物理世界における「私」の範囲を越えて、よく伸びたり広がったりするみたいだ。そう私は思う。


(4)地位や身分にいる時のわたしたち/個人主義の再思考
 わたしの親父は、一介の高校の先生である。スーツを来て、ネクタイを締めると顔付きが変わる。

 仕事場で着るスーツや「制」服は、実にタイトなものが多い。寸法を図る時も、皮膚と生地の隙間をあまり許さない場合は多い気がする。
 警察官の制服も、ものすごくタイトだ。
 だが、一面でこんなことは考えられないだろうか。教師や警察官としての「彼」は、タイトな衣服をつけた瞬間、シュッとその衣服の中に身体がおさまる。同時に意識も完全にその仕事モードになる。彼が彼の職務を、なるたけこなしやすいように。
 (3)で私たちの身体や意識は、往々にして伸びたり広がったりするといったが、私たちはある意味、地位や身分をいわば媒介として、フニャフニャとした私たちをシュッと引き戻しているのではなかろうか。強いゴムは伸びた後、必ず同じ力量で元に戻る。

 近代以降、身分から解放された個人。しかし、「裸の個人」という言葉が語るように、剥き出しの私たちをそのまま曝け出すことは、基本的に隠したり嫌がったりする。口内や汚物を普通他人に見せないのと同じように。


…隠居という慣習がリタイアするというよりもむしろアイデンティティの別のステージへの乗り換えを意味したように、つまり隠居とはなにもしなくなるということではなく、別のことを開始するということだったように、あるいは改名の慣習というものがひとには生涯複数のアイデンティティがあって当然だとみなす社会のそれであったように、アイデンティティが単一である、という固定観念こそが、この生活はくずれるのではないか、つまりは〈わたし〉がこわれるのではないかといった不安を煽ることになっているのではないか。…
(鷲田清一「じぶん・この不思議な存在」1996、講談社)


 冒頭の、なんで僕はいろんな役割をこなしていくんだろう、僕は僕でしかないのに。こんな不思議感は、もう今ではすっかり解消された。

 身分や地位、共同体に囲まれて暮らす時代、それを転回させる形での、個人の尊厳やアイデンティティを尊重する近代~現代。 どっちに生きる方がいいかなんてのは、まったくもってそれこそ「個人」が自由に思う範囲であり、ましてや社会問題でもない。 でも、哲学。

 最後に付け加えれば、まず現代社会でも先天的に与えられ疑問を挟む余地がない(実に心地のよい)身分や、小さな共同体は依然として残存する。現代(あるいはポストモダン、か。)に生きるからこそ私たちは時として、身体と意識がシュッと、あるべき方向へ収まるような器としての身分や地位を余計欲しがる。他者との関係で生き、「わたし・自分」という存在が心地よく溶解しやすい共同体へのノスタルジアも起こる。(2)で述べたり返しの内容の飛躍にはなるが、もしかしたら2010年代は往々にして、個人主義ならぬ孤立主義の再検討が、いろんな分野で見直される時代になるかもしれない。

少なくとも、これ以上、良くない10年間になりませんように!神様仏様大魔王様!



それでは、よいお年を!(´∀`)
ミスティ @

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伸びる身体・広がる意識(1)

せかいのみなさまこんちには、ミスティです(^O^) えーもう今年も早いもので、あっという間に残りわずかですね。
この年末になって、記事をまたおそろしい程投入したので笑、お暇な方はいつでもどこでも読んで下さいまし。一度投稿した記事は削除いたしません(*´∇`)

一応今年最後のしめくくり(?)として。


@伸びる身体、広がる意識

(1)複数の「わたし」
 中学の頃くらい、一度にいろんな事を違った角度から見はじめる時期に思っていたのことの一つ。私は「わたし」という一つの個人でありながら、いわば多重人格を生きている。そのことが不思議で不思議でならなかった。
「あだ名」の複数性が例えばそうだ。戸籍上では一つの名前が確固としてあり、学校の先生達からはその名前で呼ばれ続けた。しかし、同級の友達からは、実にいろんなあだ名で呼ばれる。でも、私たちは普段何の意識もすることなく、あだ名で呼ぶ友達に向かって「なにー?」と受け答えする。
 また、第三者としての大人から見れば、当時の僕は「中学生」と呼称されては、「最近の中学生・高校生はマナーがなってない」とか言われたものだ。
 家に帰れば、親からは「息子」妹からは「にいちゃん」、そしてばあちゃんからは「孫」として扱われる。

 私たちは、いつも一つではない、複数の地位や役割を与えられて生きている。

(2)帰属体への欲求
 江戸幕府が崩壊し明治という新しい時期に移行した時、「藩籍奉還」の実施や「四民平等」が唄われた。第二次世界対戦後には、日本国民は14条によってあらゆる社会的身分と門地から開放された(日本国憲法14条1項)。「裸の個人」の出現である。

 だが、僕は個人を解放させたことによって逆に、帰る場所、拠り所みたいなものを私たちはどんどん求めるようにならざるを得なくなった(新たに見つけなくてはならざるをえなかった)気がしてならない。

 例えば同じ14条1項の中でも「性別」に基づく差別禁止規定が書かれてあるが、いわゆるあの例のジェンダーという概念がフェミニスト達から仕切りに主張されたことも起因し、「男女雇用機会均等法」などは制定の目を見た。現憲法の制定・施行から40年近く後のことであった。いずれにせよ女性の様々な場所での社会への登場・活躍は増え続けている(時に男性よりすげえと思うことも多々ある笑)。近所さんとの生々しい付き合いもいいけど、それだけじゃなく例えば仕事場で自分の能力も活かしてみたい!、的。
 日本社会には、ほんの150年前くらいには強い血縁的共同体や、士農工商などの身分の中に一生を生きるという習慣があったはずなのである。

**また休憩させて下さい笑**

 武士は武士として生きるのが当たり前、治安や政治をおこない、食べ物は農民から得る米。 あまり誰もが、その慣習自体に違和をそもそも覚えなかった節がある。

*余談:歴史を振り返ると、えてして革命や反逆は外来の文化や学問を学ぶことから端を発するのが多いみたいだ。イギリスの清教徒革命・名誉革命とジョン・ロック、フランスの1789年革命とアベ・シエイエス、江戸幕府の揺らぎと大塩平八郎。勉強して得た知恵を潔く実行に用いるのが格好良い。 *

 繰り返しになるが、日本国民は最高法規(憲98条1項)である所に規定されている14条1項を読む限り、とりあえず社会的身分や門地から差別を受けるべきではない(らしい)。しかし現実には社会背景もあいまって、殊に労働世界における雇用者と被雇用者の事実的支配関係、法人(中間団体)の権力の増大などの現象は未だに拭い切れていない問題として残っていることを、書き留めておく。

 より自由でかつ平等になったはずの個人は、しかし結果として新たな不自由や不平等を受けざるを得なくなった。すると。

 個人はまた、昔にあった筈の、自らを先天的に縛りつけてくれていた身分や地位、そしていろんな共同体への帰属を、夢みることに繋がることもあるのではなかろうか。

 資格ブームや検定ブーム、あれは単に流行現象として起こったのではなく、もしかしたら自分が(比較的楽に)得ることのできる地位や資格を、内面の欲求そのものが欲していたのかもしれない。

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音楽をはじめとした、「芸術・文化」の在り方を検討して、そこから日本社会のあるべき構造を考え出していくのを目的としています!
私にとっては、新しい試みです。

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プロフィール

HN:
misty
年齢:
35
性別:
男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
学生
趣味:
読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


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