こんにちは、ミスティです(●´∀`●)/ 毎日寒くて寒くて震えています(笑)
@田んぼが減った
(1)倉敷の田んぼ
太陽がさんさんと輝いて、空も青くて、風が気持ちよくて、緑々とした稲が元気に育っている、そんな夏。こういう昼下がりを、自転車で駆け抜けていくのは、とても気持ちがいいものです。
また、ちょっと気温も下がる頃、稲穂は実りをつけて、夕暮れ時の暁に染まる。 タハーという何とも言えない気分になりますな(*´∇`)
私の母方のじいちゃんばあちゃんは農家でもありますが、仕事の合間にこんな四季折木々のちょっとした情緒を身近に感じていたと思います。
実家は岡山の南、倉敷にあって、岡山平野と呼ばれる広大な平らな土地の上にあります。昔は家の隣はすぐ田んぼ、という感じでした。最近では、実家に戻る度、うちの近くがただの住宅街になっていくのを肌身に感じています。 あちらこちら、宅地になって気付いたら集合住宅やら一軒家が立っています。
…倉敷、いい所でしょ(*´∇`) ←違
田んぼは、自然である所の山や海までいかなくても、かなりそれに近いです。確かに稲は、季節を通して刈り取られていく運命にはあります。でも、年をめぐってそれは繰り返される。私たちがご馳走さまでした、と感謝する限りにおいて、稲は無邪気な笑顔を見せてくれるような気がします。
田んぼにはそういった稲だけでなく、狭い通りに生えている野種だとか、水田の中にはオタマジャクシやタニシ、運が良ければタガタメなんかもいたりします。 秋に入ると、様々なトンボも飛びかい、夜にはコオロギやスズムシ達が鳴く。 そういった所では、田んぼの周りは、山や海に次ぐ第二の自然です。
実家の話を取り上げましたが、倉敷でそういった田畑が減少し代わりに宅地やビルの立地が増加するのには、田畑では土地分の収益に見合わない、というのがあるのでしょう。
田んぼや畑の仕事には、ある種の特殊性があります。それは、巧妙な複雑さを要するということです。芋、などはそこまで難しくないでしょうが、稲作は難しいし、かなり手間のかかる仕事です。一期作でさえ、苗植えから脱穀まで、ありとあらゆる手間のかかる作業を連続させなければなりません。
その手間のかかることを、労働生産性が低いという言葉が支配する。すると、たちまち耕作面積を広くすべきだ、いや機械化を図るべきだ、という考えになる。しかし、稲作の特殊性は、先に述べた通りに巧妙な複雑さを持っているので、機械が完全に入り込むには限界がある。また、日本の平野は山林区域と比べて狭いわけです。
ならば、ある土地の使い道を考えた場合、そういった労働生産性も低いし収益も上がらないような田んぼを増やすよりは、賃貸として機能させたり、要するにもっと効率の良い他の方法を採用するのでしょう。その連続の結果が、田畑の随分減った倉敷の現状だと思います。
(2)効率化の先
少しここで、田んぼが減ったことに対する人々の心象風景を考えてみます。
先ほども言ったように、田んぼもまた人間が和気あいあいと触れ合えるような自然の一部、と言いました。そういった場所がどんどんなくなり、代わりに住宅やビルが建ち並ぶわけです。 ほんのささやかな、植木やガーデニングのみが、自然、しかも相当人工的な自然に触れることのできる場所となります。
ところで、私たち日本人はご飯を前にして、手を合わせて「頂きます」と言います。「食べます」ではありません。そして食事を終えた後は、「ご馳走様でした」とまた合掌していいます。 これには、自然の恵みへの感謝といった、たいへん日本人らしい美しい情緒が見てとれます。食べ物に頂きますと断っているのです。
小説家ランディは、この食べることを、彼女らしくユニークにこんな風に語ります。
…私は他の命(植物や動物)を食べて、そして自分の細胞を総とっかえしながら生きているのではないか! と。身体というものを通して、私たちは他の生き物を取り込んで生きている。一日もおこたることなく食べ続ける。身体とは、そのようにできている。食べないと死ぬ。…
〈田口ランディ「できればムカつかずに生きたい」161頁(2005、新潮社)〉
田んぼの稲も畑の野菜も、同じ生物という点においては人間と全く同じです。でも、私たちも何か体内に取り込まないことには生きていけない。彼らの命への感謝を頂きます、という言葉に託して私たちは毎日毎日言っている、そう思います。
さて、上のような一見当然のように思われることでも、田んぼを失った場所に住む人々は忘れることはないのでしょうか。かなりあやしいと思います。欧米的な均質性を備えた植木は、自然にそこからある訳でもない。ガーデニングにしても、全く自ずから育っているわけでもない。
張られた水中に住む虫達と遊んだり、暁に映える稲穂に目をやったり。少なくとも子供の私にとってはかけがえのない時間と空間だった共有性は、今は残っていません。そして、そういった時間を持たなくなるのは何も田んぼ仕事をやっている人々だけに限らず、帰り路の子供、散歩する大人にも言えることだと私は思います。
(3)幸福のカタチ
効率化の先は、また人それぞれの幸せだと思います。しかし、効率化による幸せがあるのなら、非効率的な幸せもまたあるのでしょう。お互い、優劣は付けられない外です。だけど、非効率という言葉は、まるで害虫のようにマイナスの響きを持たされています。効率的であるということが、さも絶対に正しいかのように。だが果たして本当にそうなのでしょうか?
先ほどの例でいうと、地道な手作業の多い稲作仕事や、田んぼの周りの自然へ思いを馳せるといった事柄は、前者でいうと労働生産性が低い(ゆえに機械化を図るべきだ)、後者でいうと、時間の無駄、という意味ではたしかに非効率かもしれません。
でも、非効率的だからといって、それらは淘汰されるべきなのでしょうか。
農家を営んでいる人達は、ものすごく元気です。私のじいちゃんばあちゃんがいい例です。お互い70を過ぎても、相変わらず受け継いだ土地に朝早く起きては向かう。地道作業に涙することもなく、いつも元気いっぱいです。ちなみにじいちゃんばあちゃんは、お互い農作業以外に会社勤めと高齢介護にも携わっています。なのに元気は枯れない。まるで、田んぼの稲と同じように、太陽や風などから、パワーをもらっているみたいです。
私は、実体験があるので、農作業というのは大変だけどとても幸せな仕事だと強く思っています。収益が低かろうが、手間がかかろうが、あまり関係のない事柄です。
効率化の名に蝕まれている社会を生きる私たちにとって、「効率的か非効率的か」の判断枠組みも、また一つの広い意味でのイデオロギーと捉えるのは、マイナスではないように感じられます。人に、こっちのほうが効率的でしょう?て言われて、「うーん確かにそうだね、でも…」と曖昧に受け答えすることがよくあります。この「…」の沈黙の部分に、効率化ということだけでは図りきれない、別のカタチがあるのだと私は感じています。
でわでわ、
ミスティ @
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