こんにちは!
@自己性と他者性
世界を自己と他者の二つに分けるやり方は便宜的で広範に用いられているが、それと並行した形で自己性と他者性という言葉(概念)に分けて考える区別もなお有効である。
というのは、私という存在は、何も自己性からのみなりたっているわけではない。
たしかに、デカルト的主体を考察するときには、<私>において「自己性」は最大限の主張をなす。
「コギト」、すなわち疑いようのない<私>という存在の証明に成功した暁には、他者といった存在は非存在、もしくは大変に疑わしいものとして考えられているからだ。
しかし、私には「自己」とはおよそ考えられない要素や部分、概念が含まれているのもまた事実である。
例えば、この身体、この体は通常<私>の範囲に含まれているものと考えられている。というより、私たちの認識は己の身体を隷属化させることによって日常を成り立たせている。
胃や腸は、普段は意識の中に姿を現さない。それが不調のときに陥ったときに、すぐさまその存在を主張し始める厄介なものである。ビールを飲み過ぎて焼けた胃の不全は、<私>にはどうするlこともできない。もちろん、胃薬を飲むなどの解決法はあるにはあるが、それも薬は効いてくれるはずだという願いのもとに行われる動作である。
基本的には胃はわたしたちの意志を無視する。胃の調子がおさまるかどうかは、まったくもって随意の埒外なのである。こんなものが果たして<私>といえようか?
明確に否定することもできないが、肯定することはできない。ということは、<私>には自己性のみならない、何かそれと区別されるべき何かがあることになる。
以上の理由から、単に私=自己性、他者(他人)=他者性と決めてかかるよりも、もっと細かいところで考察の単位を「自己性」と「他者性」とを挙げて考えることも、また有効でもあるかもしれないという帰結に辿り着く。
さて、例の話でもクロスしてしまったが、とりあえずこの自己性とは何なのか、というところからはじめなければならない。
端的にいってしまえば、自己性とは、①私たちの生活の中で②最も近い存在でかつ同時に③最も遠い存在である、この条件を満たす概念である。これは説明しづらい。感覚的にいうと、「これ!」と叫びたくなるものその対象が、本校の考察するところである「自己性」の正体である。
この<私>と最も行動をともにする存在が、私である。<私>について親よりも思考をめぐらせ、<私の身体>をこなよく労るところの存在である。例えばAさんならその「Aさん自身」が自己性と等値であるということも言えそうなのだが、さきほども述べたように私たちという存在は自己性からのみなりたっているわけではないのでそうではない。
他者性の定義から入った方がはやいのかもしれない。他者性とは、強いていうなら「<私>の統治(それは自己統治も含む)の範囲外にあるもの/概念」である。これまた消去法的な定義で申し訳ない。 ちゃんと言い換えると、1<私>と同じようなシステムを有すると「推測」させながら、2しかし<私>の手には負えない存在である。隣のうちの山田さんでよい。隣のうちの山田さんは確かに<私>と同じ人間であり、同じ町内に住む住人であり、同じ新聞を取っている人だ、と言えるが、しかしそれはすぐさま「確実にはそうだ!」とは言えないはずだ。もしかしたら山田さんは嘘をついているかもしれないし、同じ新聞を取っているのも、たまたまその新聞を彼女が取っているのを目にしただけのことかもしれない。
そして、山田さんは随伴性の外側にある。私がいくら心のうちで山田さんを操ろうが、現実の山田さんは私の意志とは無関係のところにー後述するが、この無関係性は揺らぐものとなるー位置するものだ。<私>が手首をケガしたところで、山田さんが同じように手首をケガすることはない(ここでも同じように、時として両者の挙動が一致することはある。シンクロと呼ばれる現象がそれである。シンクロ現象については、いくつかの類型化された原因が考えられる)。
安易な二分法によって物事を考えるのなら、世界はとりあえず自己性と他者性の二つを基礎としている、と仮定することができる。随伴性、不随伴性。意志の内、外。確実と、推測。同一、差異。いくつかの要素が、ふたたび二項対立として表れる。
本稿での基本的な視座は、<私>とは端的にこの自己性と他者性の混ざり合った存在であるというものである。どちらか一方、ということにはならない。<私>が、自己性の塊として突出することもあれば、他者性の様相を帯びるときもある。ケースバイケースである。深く突き詰めれば、こういう場合には自己性が強く、こういう場合には他者性が強く、と分析することもできるかもしれないが、本稿ではその詳細に立ち入らない。
(執筆を、ここで断念しました↓)
misty @
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