こんばんみ、mistyです。(#^.^#)
今日ひとつ大学の試験がありまして、たった一つ受けただけで消費してしまいました笑
あー試験勉強なんてものは、あんまり楽しくないなぁ。。
まぁいいや。笑
本当はまだ試験勉強続けるべきなんですが、そういったちょっとした「逃げ」の気持ちから、「主体性批判」なる記事を載せます。(゜-゜)
@主体性批判
(1) わたしたちは、常に主体性を持って言葉を話してはいない
最近では、よく「主体性」に関する言説などを改めて日本でよく聞く。特に企業での人材育成の場面などで、それは多い。「ちゃんと主体性を持って行動しよう」などといったスローガンである。
しかし、わたしたちはいつでも主体性をもって行動しているわけではない。
この言い方は、よく批判を受ける。反発心が働く。んなわけない、と。 わたしたちは主体性をもって、常に行動している、と。
主体性とはさしずめ、「自分の(よき)主人であること」、である。なるほど、わたしたちは確かに自分のよき主人となり、自らに責任を持って行動していることもあるだろう。しかしわたしたちは、本稿が明らかにするように、いつでもそのような態度と行動を完全には取れはしないのだ。
このことは、フランス現代思想などでは、20世紀初頭から激しくいい争われていることでもある。
ちなみに、主体性と歴史の発展というシンボルを掲げて広く社会に活動を呼びかけていた、哲学者サルトルなどが提唱したそれを、実存主義と呼ぶことがある。
同じく20世紀に活躍したガタリに言わせると、フランス思想に於いては、実存主義は「とっくに終わっている」(注1)ものらしい。
(注1) ジル・ドゥルーズ「差異と反復」(財津 理訳、1992、河出書房新社)訳者あとがき509頁。
(2)言葉に関して
特に、わたしたちが言葉を使ったり(つまり、しゃべったり文字を書いたり、というコミュニケーションの手段として)する時、このことはよく明らかになる。常に自分の動機や意図に基づいて、言葉を発しているという現象を、わたしたちはどう捉えたらよいのか。その自分の動機や意図は、しかし、他者等の媒介がない限り、どうしてそれが動機や意図となりえようか。このことは、自分というものを、少し突き詰めて考えると、それはたちまち雲隠れしてしまうといった事柄によく似ている(注2)。
(注2) これに関しては、過去記事「伸びる身体・広がる意識」(アドレス:http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/47/、http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/48/)や鷲田清一「じぶん・この不思議な存在」(1996, 講談社)、同氏「悲鳴をあげる身体」(1998, PHP研究所)等を参照。
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COMMENT
無題
人間に主体性はないといっても公的責任は社会の中でちゃんと与えられているわけで、個人が制限された条件の中でも物事を自由に判断する余地はあるはずですよね。その「余地」が実存主義をどこまで許容するのかに私は興味があります。
知識も素養もないのでなんだかチラシの裏みたいな文章になってしまいました……お目汚し失礼。
お久しぶりです@@
コメントありがとうございます(*´∇`)
まだ完結もしてない短い記事なんですが、やっぱり主体性をめぐる思想は錯綜してますよね!
そうですね、批判といっても、懐疑にほとんど近いくらいの意味です笑 あまりにも今の日本が、やれ主体性を持って、だの言われてますが、果たしてそれはどこまでもっともらしいのか?
むしろ新たな主体性の概念を考えたいぐらいなのですが笑、やっぱり初歩の論点としては、サルトルとストロース以降の争いなどが分かりやすいな、と思いました@
最近ドゥルーズなんかを読んでいたりもするんですが、はっきり言って読めない笑笑 難解ですがたまにほえーとなる感じです笑
続き(といっても長くないです)も、お待ち下さい@