こんぱら!mistyです。
@”宗教”の役割
個人の心理(若しくは、魂)の救済。 「苦しい・辛い」と思った時、それを緩和するだけに留まらず、「こうでありたい」という欲望とどうにか折り合いをつけるための方法。
それは、”宗教”以外に、ないのではないか、と私は強く思う。というより、宗教の役割とは、とりもなおさず個人の心理/魂の救済にあるのだ、と断言したいくらいだ。
宗教学、比較宗教学、宗教社会学、道徳学、倫理学、複数の学問的アプローチから、様々な”宗教”の定義或いはその役割は説明されている。
しかし、上の定義(宗教の役割=個人の心理/魂を救済すること)で、十分ではないか、と私は考える。
原理的には、小座部仏教だけが、これに当てはまるのではないか、とたちまち懐疑される。 確かに、世の中の宗教は、大乗仏教であれ、キリスト教であれ、信仰者全体の、あるいは社会=世界全体の救済/改善 を窮極の目標におくものもあり、その点からいけば宗教の役割を個人に限るのは狭きに失するのかもしれない。
しかし、個人の心理/魂の救済という目的なくして、宗教はありえないと思うのだ。
というのは、特に現代社会においては、個人というものは、実は一番後回しにされる存在なのである。おそらく、私たちは、言ってみれば「(部分)社会の調和が取れること」を目的とする社会の中に生きている。それはとりもなおさず、ある種”全体にとっての”利益・救済が重宝される。 例えばA・B・Cの3人からなる集団においては、社会は形式上は、AにとってもBにとってもCにとっても、一応”誰も傷つかない程度の”、つまり最悪の状況(A・B・Cの3者みながマイナスの状況に置かれること)救済を何よりも図る。 3者の利益調整が働くのである。
利益調整。 現代社会は、利益調整という名の下に動いている。
ならば、個人の心理/魂に関しては、非常に後回しにされる、というよりそんなことには真正面から向き合ってられない、それが社会の実体である。 ”個人主義”や”主体性”を大きく謳わなければならなかったのも、そういう意味で実は個人は1番重要な存在であるかのように見えて、実は1番どうでもよい存在なのである。
しかし、それは如何なものか。 微細に変化し、変容をみせる、私たちの心理/魂。
日常生活を送っていて、「苦しい」とか「つらい」とか思う/感じることは山ほどある。
それは、「苦しくない」「つらくない」のが基本なのではなく、おそらく逆なのである。
そういうときに、”宗教”は圧倒的な役割を果たすのではなかろうか。宗教以外に、包括的/体系的/原理的に、個人の心理/魂の救済を目論む社会システムなど、ありえようか?
誰が、私たちを救うのか。 宗教か、社会か、あるいは自己か。
答えはない。
@ misty
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