こんぱら! mistyです。
最近、いわゆる”ポストモダン”の概念に関して、肌で(つまり、頭ではない)強く感じ取ったことがあるので、misty的ポストモダンの、特に限定をかけて「文化」の状況を描写/提示 しておきたいと思います。
かなり粗雑ですが、細かい部分はご指摘や批判を受けたい所です。
@(misty的)ポストモダン時代の文化
misty的、と冠を付けたのは、あくまでも筆者にとって「ポストモダン時代の文化の状況は次のように感じられる/考えられる」というくらいの意味です。 (人が100人いれば、100通りの”ポストモダン”概念或は観念ができるのではないでしょうか。)
ポストモダン時代の文化の状況という事ですが、ここではモダニズム的文化と比較させる事にします。
日本の、山(脈)を思い浮かべて下さい。 日本で一番高い山は?と聞かれれば、誰もがこう答えます、”富士山”です、と。 それは少なくとも現在までは客観的かつ確定された、純然たる事実として機能します。
そして、モダンの時代においては、日本中のみんなが、一度は富士山にのぼって、「やっほーい!」とか叫んだりして、富士山の頂上から見える景色を眺めて、それを共有していた訳です。みんな、”富士山と、富士山からの眺望”を、共有していたわけです。老若男女問わず。
しかし、それがポストモダンの時代に移行すると、みんながみんな、富士山に登らなくなった訳です。
”なんで、みんなして富士山に登る必要があるんだ?”と。
そこで、”全然、近場(例えば地元)の山でいいじゃん”といって、その山を登って、その山を登ったもの同士で、”あー眺めがいいね!!”と、気持ちを共有する訳です。
おそらくその近場の山は、富士山のように登るのに相当の根気と体力がいるわけでもありません。”割と簡単に、その山に登る事が”できます。 そして、その山からの景色も、実際の所富士山からの眺望と比較すると対した事はないのかもしれないのですが、当の本人達がそもそも富士山に登った事もなくましてや興味も特段ある訳ではないので、「その山からの景色を眺めて、少人の人との気持ちの共有を図る」だけで、十分な訳です。
日本を見渡せば、高低様々の山があります。 みんな、富士山の”存在”くらいは知っているのですが、だからといって、”富士山に必ず一度は登らなければ!”という風にはならないのです。近場の山を登山して眺望して、それで充分な訳です。 そうして少人数が集まった山どうしが、ゆるやかにつながり、それが日本の山々と人々という状況になります。
これが、misty的ポストモダン時代の文化の状況です。 例えばアイドルでいえば、日本の近代=モダン時代では、「山口百恵」や「松田聖子」のように、”必ず一度はハマった(=登った)”アイドルがどーんとそびえ立っていた訳です。 誰でも、百恵や聖子を語り、しかも(登山した事に関する)苦労を織り込みながら語っている訳です。
ポストモダンの時代についてはどうか。 モーニング娘。、AKB48、なるほど、一見「どーん」とそびえ立っているように見えます。しかし、モダン時代の文化状況と明らかに異なるのは、”誰しもがモーニング娘。やAKBにハマった(登山した)”わけではないということなのです。
彼女らへハマった=登山したのは、ごく一部、具体的に言えば"アイドルオタク"というごく限られた人間なのです。 間違ってか間違ってか、オタクでない人も一部はハマりました。それは確かです。
ですが、何遍も繰り返すように、”みんながみんな登山した”山ではないのです。 だからこそ、彼女らへ登山したファン=オタクは、「この山はすごいよみんなも登りなよ(ハマりなよ)!」と、一層声だかに叫ばなければならないのです。 その呼び声はみんなに届くのか、否。
そうです、モーニング娘。やAKB48は、”近場の山の一つ”に過ぎないのです。それは、決して百恵や聖子のような、富士山級の山足り得ないのです。
しかも、モーニング娘。やAKB48といった山々は、”案外簡単に”登る事ができるのです。同じ事を別の角度から言えば、いったんモーニング娘。の山を登って、また降りてAKB48の山に登る事も、めちゃくちゃ簡単な訳です。
そうやって、ゆるやかに、個々の小さな山脈はつながっているのです。モダン時代の山なら、阿蘇山と富士山みたいな感じで、ある程度切り替えるのに(百恵ファンをやめて聖子ファンになる)難しさを要したのですが。
ここにおいて、misty的ポストモダンの文化状況とは、「1個々の小さな山がたくさん乱立/浮遊しながら、2なおかつそれらは相互に緩やかに繋がって、全体という錯覚を引き起こしている」というものです。
僕も、1ヶ月前までならば、本気で”AKB48は世界を(一瞬でも)支配するかもしれん”と思っていたかもしれません。 今、まったく思いません。 はい。
せいぜい、AKBオタクと一部の一般大衆のみが、このAKB48という山に登って(ハマって)、限られた内輪で気持ちを共有するのだろうな、と。
ポストモダン時代における文化とは、そんな感じなのではないでしょうか。もはや、富士山は、文字通りの富士山足り得なくなっている、富士山ですら一つの”大きな山の一つ(エヴェレストやK2が他にもあるよ!)”に過ぎなくなっている、それが現代人たる我々の、普通の感覚ではないでしょうか。
もちろん、富士山自体への、ノスタルジックな”日本国を象徴する山”という側面を軽視してはなりません。 しかし、富士山を今後も”富士山”たらしめようとするには、それなりの苦労が必要かもしれない、と20代の筆者は考えました。
以上
mitsy @
[1回]
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COMMENT
No Title
「必ず」「誰でも」というのは、どうやって検証したん?
「山口百恵や松田聖子は、”みんな”に愛されるアイドルで、AKBやモー娘は”ヲタク”に愛されたアイドル。」―そんな風に2つを区別しとるみたいやけど、昔のアイドルは、本当に”みんな”に愛されていたんやろうか。テレビとか見てると、さも「百恵ちゃんや聖子ちゃんは日本国民みんな大好きで、みんなハマってた」みたいに言われるけど、本当にそうなんやろうか。
オレは、今AKBを冷めた目で見てる(オレの個人的心情だ。許せ笑)
そんな風に、当時山口百恵や松田聖子を冷めた目で見てた人はいるんじゃないか?
AKBは確かに「”みんな”のアイドル」という側面よりも「ヲタク文化」として見られている部分があると思う。
けど、仮に10何年たって、AKBがテレビなんかで取り上げられる時には、それこそ今のテレビが山口百恵を扱うのと同じ調子で「みんなに愛されたアイドル」として取り上げられたりするんやないかな~。
実際、初期のモー娘。が最近テレビで取り上げられる時は、徐々に美化(笑)されてる気がするんだよね、印象として。
美化ってのは、繰り返しになるけど、「冷めた目」とか「ヲタクに愛されていた」という事実を上手く隠して「”みんな”がハマってたアイドル」として扱われること。
要するに、山口百恵・松田聖子(そもそもこの両者を並立していいのか、と疑問に思うけど)と、モー娘。・AKB(そもそもこの両者を(ry)は、大して違わないんじゃないのかなぁ?というのが、オレの思ったこと。
だから、山口百恵や松田聖子が富士山級だったとは、オレはあんま思わないかな。
オレのイメージはこんな感じ↓
それぞれの山の高さはあんまし変わらない、今も昔も。
今と昔が違うのは、それまでは、百恵山や聖子山しか”見えてない”、もしくは”百恵山や聖子山以外の山への行く手段が無い”状態だった。
だから、みんな百恵山や聖子山に登った。
今は、AKB山やモー娘山以外の山が可視化されて、しかもそこに行きやすくなった。だから、それぞれの行く人が減った。
>モダン時代の山なら、阿蘇山と富士山みたいな感じで、ある程度切り替えるのに(百恵ファンをやめて聖子ファンになる)難しさを要したのですが。
ていうか、この記述の根拠を知りたいかも。
とりとめもない感じでスマン。
わかりにくかったら、今度会って話すわ。
No Title
奥まで考察していくと、百恵・聖子/モーニング娘。・AKB48 には明らかな時代による断絶性があって、それは無視できない程度だった。
マスコミの整理は、そんなものだろうよ。マスコミの扱い方は聖子もAKB48も同列に語るだろうが、しかし僕が言及しているのは、彼女らの実体/本質に近づくための事柄。マスコミに映し出されるレヴェルではない。
〉「必ず」「誰でも」というのは、どうやって検証したん?
10人くらいの知人にアイドル論をふってみると、彼女らの名前が何回も何回も出てきた。 親に話題をふってみてくれ、少なくとも百恵か聖子か場合によっては南沙織か中森明菜か、どれかに必ず多大な影響を受けている筈だよ。
当然、当時、アンチ・アイドルはいたよ!しかし何が違うって、その影響力の強度! 現代アンチは2ちゃんねるなどを生息地として、非常に有効に活動している。 しかし当時のアンチは、比較的に現代よりも弱いんだよ。アイドル肯定派が非常に大きかった、それが70年代〜80年代中期だよ。神話ではない、これはガチな話。
とはいえ、俺のモダン/ポストモダン文化の語り口は、どうしてもテーマがでかすぎるゆえ、小さい所(細かい所)は無視したね・・・
とにかく俺らの生まれる前の文化状況なり社会の空気の状況なりを”掴み”たければ、その人たちに話を聞くしかない。 出水先生は誰にハマっていたんだろう・・・笑
No Title