こんぱら! mistyです。
前回の投稿は、3月の読書記録だけだったので、本当の新年度一発目の記事は今回ということにします!
まぁ、あまり中身はないと思われるのですが・・・苦笑 ブログって難しいな。(><)
@動いてやまない機械
ドゥルーズ=ガタリ著の「アンチ・オイディプス」を読んでいる。
(ちなみにドゥルーズ単独著作の「差異と反復」も、あと一章と結論部分だけ!)
「アンチ・オイディプス」を読んでいてすぐに分かることなのだが、この書物には実に「○○機械」という表現が多い!
欲望する諸機械、源泉機械、器官機械、アルプス諸機械、独身機械、線形機械、原始土地機械、資本主義機械・・・。
ほとんどの単語に機械、machine of〜を付けているぐらいである。
ではドゥルーズ=ガタリは「アンチ・オイディプス」(及びその続刊の「千のプラトー」)を構想するにあたって、いわゆる機械論を骨子にしていたのかというと、そんな説明はどこにもされていないので、おそらくこれは短絡的すぎる見方なのであろう。
しかし、私自身は、このありとあらゆるものを「機械」と(いったんは)見なす機械論が、割と好きなのである。機械論をしっかり踏まえて物事を考察したことはないが。
私の中での「機械」のイメージは、幾つかの歯車が複雑に絡み合って、絶え間なく動く第時計の裏のようなモノだ。
人間を一種の機械と見なす「人間機械論」にも様々のものがあるが、例えば本稿で私は、「絶え間なく動いたり、突然動きを止めたりする」点を強調してその一つを描写してみたい。
機械は、スイッチを起動させている限り、絶え間なく動く。時には、故障して暴走することすらある。暴走しているときであっても、「動いている」ことに変わりはない。
基本的には、スイッチを切ると、動きを止めてくれるようになっている。
さて、一方人間も、ある意味絶え間なく動く存在である。人=休むか動くかしている存在 とでも定義したくなるほどだ。
体を動かしていないと落ち着かない、という人がいる。これはそのことの典型例だと考えられる。このときの「体」というのはおもに「身体」のことであるが、それが「頭脳」の場合であっても話は変わらない。
最近の学知においては、<思考>の源泉はー心ではなくー、頭脳の働きによることが実証されている。
ところで、思考とは絶え間なく続くものである。
自由とはいったい何であるかの、哲学的な空想に耽っているとする。突然、お腹がすいたなぁと思う。また思考は自由の意義に戻る。すると、明日の時間割のことが気になってくる。そういえば、昨日連絡がつかなくなった母親はどうしているだろう・・・
思考はこのように、それぞれにおいて一貫性を持たず、しかしそれらは連続的である。止まることがなかなかない。
そして、頭「脳」も身体の一部であることに違いはないのであるから、やはり人間はその限りにおいて絶え間なく動く存在なのである。もちろん、睡眠といった休憩を必要とする。
この点において、人間と機械は似通った性質を持っていることが言える。機械もまた、その限りにおいて絶え間なく動く存在なのであるから。そして、スイッチをいれっぱなしにしておくと、エネルギー不足になったりパンクしたりする。
ところで、身体を必死に動かしている間、または頭を懸命に使っている間、私たちは、得も知れぬ快感を感ずることがある。世界にとけ込むかのような、世界と自分が一体になったかのような、そんな心地よい気分だ。
一生懸命絶え間なく動いていると、理性とは関係なしに感性がそうした一種の快楽を受け取ることがある。これも、人=絶え間なく動く存在 からくることの、何かしらの作用であるのだろうか。
misty @
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