発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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@神は月であった―ジョルジョ・アガンベン『王国と栄光』に関して―
何ということだろうか。ジョルジョ・アガンベンの著作は、政治神学に大きな貢献、というよりむしろ途方もないショックを与えてしまった。
その550頁における一つの大きな着地点は、「神は栄光を求めかつ栄化するもの(でしかありえない)」ということだ。
栄光とは、そのまんま、賛美や称賛のように、輝かしいもののことである。栄化とは”栄光”(名詞)を動詞化したもので、「輝く/~を輝かせる」という意味だ。
神は、後述するように、人を救済する神でも、人に啓示を与える神でも、何でもない。
ただただ、”私を褒め称えよ、あがめよ”と人々に要求し、かつそれに応じて空洞のイルミネーションを照らし返すだけの存在だったのだ。
順を追って説明していこう。まず、神というのは、日本の日常生活圏においては、例えば、明日が期末テストなのに全然勉強してなくて「助けて神様!!」と呼び出されるような存在である。
そのような神は、実在論的なものである。神はこの世界のどこかにモノやヒトと同じように存在し、私たち被創造物の運命を決定づけているものとして説明される。
この実在論的神は、いちおう近代自然科学主義的見地によって、排斥されうる。理由は簡単だ。「だれも、神という存在を目にした事がないから」。
ただこの答えは、ただちに次の批判を浴びることになる。「誰も目にした事のないものを、『今目にしたぞ!といって、誰が神だと信じるのか?」 電灯(エジソン)やダイナマイト(アインシュタイン)は、神なのか? 電灯や爆弾が、私たちの運命を決定づけているのか?
電灯や爆弾の発明は、確かに私たち現代人の生活を規定しているが、だからといってさきの<神>のように私たちの運命までもを決定づけない。
よって、神は実在論的位相では捉えきれない。
神は、観念論的な存在であるのか?
誰も目にした事がないし、記述の大元は挿し絵抜きの文字のみの聖書である。なるほど、それなら人間が勝手に頭の中で作りだした間主観的なものだ言えそうだ。
ユダヤ教(初期キリスト教)において、<神>とは、<父>なる存在、厳かな存在であった。恐れ多いのである。
ノアの大洪水を起こす神、バベルの塔を壊す神、それによって人々に罰を与える者としての父=神。
イエス・キリストの誕生と復活によって、中期キリスト教、現在のカトリック教が生まれた。
カトリック教圏域の神学においては、神=子(イエス・キリスト)=聖霊、という三位一体説が通説である。
しかしこの三位一体説は、様々な矛盾を孕んでいる。学界からも多くの批判を浴びている。
例えば、親なる神が、子なるイエス・キリストを人間界に使者としておくったという聖書の記述だ。
<神>は全知全能であるのに、何故わざわざイエス・キリストを送り込むという面倒なことをしなくてはならかったのか?
イエス・キリストの受難と復活を説明するには、あまりに粗雑すぎる。
なぜなら、イエス・キリストが復活してからこのカトリック教(説)は生まれているからである。
それでは、女神=<母>なるものとしての、優しい<神>は存在するのだろうか?
遠藤周作『沈黙』において現れるような、人間の苦難を共にする、見守る<神>。それは優しさと果たして呼びうるのだろうか、否。
無為の神。 何もしない神、というより中身が空っぽの神。空っぽだからこそ、ヴェールを必要とする。ヴェールに、光を、栄光を求める。
神とは、鼻から栄化を求める存在以外にないのだ。 それは、月に似ている。
月は、惑星である。恒星である太陽の光に反射して、その光を地球に照らしだす。
ニーチェは、「神は死んだ」といった。 これは、人間=神 を特質とする近代の始まりであった。
そして、その神たる人間は、科学技術の進歩を伴って、月に辿りついてしまった。そして月の空虚さを証明したのである。
その瞬間、月は、月ではなくなった。世界は神であるか、かつ何もないか、の一つになった。ただの一論である。
今後、月の可能性は、どのように展開されるだろうか。移住計画や、エネルギー源など、それは人間の下僕に過ぎないのか。
こうして神はほんとに死んでしまったのである。
ジョルジョ・アガンベンの『王国と栄光』の余波は、大きい。
misty @
@科学の内部から外部へ突き抜ける方法
科学の外部、外の世界へ、突き抜ける[逃げ出す]方法はあるのだろうか? あるとしてそれは如何にしてなのか?
周知の通り、現代社会では、およそ<科学>scientia と呼ばれるものが、真理のほとんどを占めている。科学的根拠があるかなしかの二元論でほとんどの物事のありとあらゆる価値が判断される。
(※ちなみに本稿では差し支えない限り、「科学」を「仮説・手段・目的を設定して、それぞれに基づき論理的に、ある真理の一部を解明することを本質とする学的態様の諸体系あるいは部分」と定義しておく。この定義は本ブログで繰り返し使うことになると思われる。)
科学とは、簡単にいえば、仮説に基づいて論理的に真理を形成しようとする行動や態度、又はその考え方などのことである。
科学が人間社会をこのように支配するという事態は、永遠不変の事でも何でもなく、とりわけ近代からその勢いを飛躍的に魅せた出来事であった。 科学が真理だとは限らない、なぜならそれはいつまでたっても仮説であるから。
しかし、ある有効とみなされる仮説が支配的な立場を占めるに至った場合、それが反証されるとか激しい批判を浴びるとかされるまでは、その妥当性を確保することが社会の安定につながる。そうして時代時代の諸真理は形成される。
問題はここからだ。人文科学・社会科学・そしてとりわけ自然科学がこの社会を支配するようになったこの今、私たちには果たして科学から抜け出すことはできるのであろうか?
できる、と答える根拠は何であろうか。観察/判断過程に置いて科学的でない、との<答え>が出た場合、それは科学的なものでないから即ち私たちは非科学に接近したことになるのだろうか?? そもそも、根拠を問うてる時点でそれは非常に論理的な手続きではないだろうか。つまり、それは科学的な手法に他ならないのではなかろうか。
科学を否定する場合、この否定の仕方がまた科学的である場合、事態は延々と科学の内部に留まるばかりである。
「これは非科学だ、そう考えたのは科学的根拠だ、その科学的根拠は非科学的だ、そう考えたのは科学的だ…」
井の中の蛙、ということわざが全てを示している。私たちは、単に<科学>という名の井戸に閉じ込められているだけなのではなかろうか?
それは、果たして正しいことなのだろうか。非科学は不正義なのだろうか。 というより、私たちは非科学的なものを、非科学的な方法で、非科学的な眼で、非科学的な手で、接触することができるのであろうか。
現代社会の病理。パラノイア。
既に、脱科学を掲げて様々の分野からいろいろな試みが行われている。一番パフォーマティヴでつまり派手であったのは、イェール学派を主とする脱構築であろうか。 内部に住み着いてひたすら徹底的にその構造を問い直す、つまり井戸の中からハンマーでたたきわって、外部へと抜け出すという方法論。
しかし、脱構築もまだ未完全のままで終わっている。内部から外部へ、私たちは如何にして移行するのか。
簡単なようで、実は驚くほど困難なのが、この<移行>問題である。 それを解消する現場を目の当たりにする日を、私は是非この目で確認してみたい。
以上
misty @
@倫理(道徳/道義心による審級)をどう考えるべきか
”議論”と呼ばれているものの多くの実態、例えば、世論、一般大衆による国家批評―もっともこれはメディアがイメージ作るものでもあるから、一端には責を問えないが―などは、実際のところ、最終的な拠り所を<倫理>やヒューマニズムに求めているのがほとんどだと、私は観察する。
「人間的な態度として…」
「道徳心に欠ける政府の対応…」
「結局、倫理的な使命感を欠いているのが決定的にダメだと…」
こういった言説で他者を批判/非難するのは自由だが、しかしそれは有効なのだろうか?
この<倫理>といったものをどう考えるべきかの、私の回答はひどく冷めたものである。
一言でいえば、倫理(ないし道徳/道義心による審級)とは、他の政治的判断、法的判断、自然科学的判断、芸術的判断、宗教的判断といった諸領域の中のひとつにおける、一機能であり、またそれ以上のものではない。
倫理感に溢れている人が、常に成功を呼び起こすのだろうか?
使命感が強い人は、救われるのだろうか?
必ずそうではないことを私たちは知っている。また、全てが倫理で片づけられないということも。しかし、私たちは時に補充的にヒューマニズムを持ち出す癖があるのだ。
最終的な拠り所にこのヒューマニズム、つまり倫理をもっていることはあまり重要でない。それよりも、他の諸領域と並行して働く、一つの機能だと相対的に把握しておくことが、より大切である。
倫理を一つの機能として捉えると、それはまず何よりも、諸々の行動/言説に対する、ストッパーの役割になる。
私たちはこの問題に対して法的判断や政治的判断をクリアしてきたが、倫理的判断においてはどうか?それはあまりに非・人間的な態度に過ぎやしないか? こういう風に懐疑することは、必ずしも私たちを損なうものではない。
ハッキリ言って、<倫理>的な態度を取るということの意味を考えても、あまり役に立たないと考えられる。しかしそれは、私たちを非常に人間らしくする。というより、倫理や道徳の(決定不能な)問いを問い続けることによってのみ、私たちは人間たりえるのだ。
「倫理的には許されざるものかもしれない。しかし…」
「宗教的観点からは好ましい。しかし倫理的にはどうしても…したがって…」
このように、言説が倫理といったものに一旦括弧をつけて、物事を相対的に見る言説態度が増えることを願ってやまない。
以上。vv
misty @
@一切は流動する―流動の哲学
『差異と反復』、フェリックス・ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』で語られる大きな一つの主題は、
「流動(流れ)」である。
ドゥルーズは、流動の哲学者と形容してもいいだろう。一切の固定化(コード化、強制化、決めつけ、固定化)を拒否し、実践的に逃走線を引くための。
例えば、<私>は、いったいどこが固定しているというのだろう? 自己同一性(アイデンティティ)はやはり仮象にすぎないのだ、どう考えても。
それよりも、流れの中に、例えば絶えず引いては寄せていく、水の中の世界を想像すればいい。一切は流れる。そこに、<いま・ここ>、<私>という仮象が存在するのだ。
流れる水の中では、全ては未分化だ。身体はまさしく器官なき身体であり、口は裂け、内臓は飛びだし、目玉が出る。様々の器官なき身体同士が絡み、そしてまた離れていく。 現代社会に生きる私たちは、毎日、いや毎瞬間、違う<私>(一瞬の仮象)に出会う。 「新しい私」を探すまでもない。 毎日違う衣服を身につけ、考えも感情も変わり、表情すら違う<私>が、一瞬一瞬存在している。 食物は口を通っては肛門へ流れる、細胞は瞬間瞬間に入れ替わる。
社会もそうだ。 浅田彰が「クラインの壺」で示したあの恐るべき資本主義社会。そこでは、
メタ・レヴェル/オブジェクト・レヴェル といったセミオティクス的な二元値をもいっしょくたにしてしまう。商品は消費されては、生産され、消費されては、生産され…(もっともドゥルーズ=ガタリは「いっさいは生産である」と言っているが)。 「斬新な」商品が、日々取って代わる。音楽のチャートは毎日変動し、慌ただしい姿をさらす。
水の中。それは、母親の子宮内のようにとてつもなく心地よいものでもある。何もかもが未分化なままの状態。
もし、この資本主義社会(柄谷行人の用語でいえば、資本=ネーション=ステートだ。)から離脱したいとでも言えば、どうすればいいのか?
水の中で、水を切っても意味はない。空振りに終わるだけである。どうすればいいか?論理はあまりに明快だ。
上、空に突き抜ける。ただし、空があればの話だ。それでも我々は、もしこの資本主義制近代社会(あるいはポスト[脱]近代社会)から逃走線を鮮やかに引いてみるのであれば、ひたすら上を目指し、泳いでいくほかはない。そこに、根拠はない。”命がけの飛躍”だ。
社会に留まるか離脱するかは、まさに個人の自由である。
misty @
この書物の中で語られ(かつ重要な事柄であ)ることはあまりにも多いのだが、この小考で捉えたいのはただ一つ、フーコーが指摘した、”狂気”の形態の変遷である。
私の無理解かつかなり大雑把な要約を許してほしいのだが、”狂気”(あるいは非理性)の形態の変遷とは次のようなものだ。
古典主義時代、ルネッサンス期までの西欧社会においては、狂気の形式はある程度未文化、いわばカオスの状態であった。<阿呆船>に乗せられる人々は精神病者のほか、道徳的に許されざる者、犯罪者、身体的病人、酔っ払い、など、実に様々である。しかし、それがだんだんと分化=カテゴリー化されてきたのが、17世紀以降の近代の時代であった。精神病(心的病なるもの)は精神病院か感化院へ、犯罪者は国家監獄へ、酔っ払いは道路の上へ。20世紀・21世紀において考えられているような狂気/異常 の形態=形式は、もともとバラバラであったのでは決してなく(例えば、精神病者/犯罪者/社会不適合者といったような)、歴史の流れの中で徐々に構築され(若しくは構築して)ていったということ。未分化なものから異化されたものへの変遷。
以上が短い要約であるが、あまりに当たり前すぎると思われる方もいるかもしれない。しかし、この指摘は誰でもできるようなものではなかった、フーコーの実に独特な方法によってまさに”発見”された一つの社会における思考一般のカテゴリであるといえよう。
私が簡単に述べたいのは、ここからである。 フーコーは、狂気(非理性)の様々な諸形態にただ単に着目し、その流れを記述したわけではない。(というよりそのような方法ではとうてい「狂気の歴史」を捉えることはできない。)そうではなく、彼はいつも狂気のいわば反対側にある、正常(理性)との関連において、”狂気”を考察していったということである。
正常=理性/異常=狂気
狂気が、精神病者の方が何やら「特別」とか「変わったもの」とかのように見えるから、事態に一種の霧がかかっている。そうではない。むしろ、精神病者や犯罪者や社会不適合者は、「特別」とか「変わったもの」とは全く無関係の次元において捉えられなければならない。
狂気を規定するのは、とりもなおさず正常(値)の側の方である。権力者が、非権力者を規定し、内包したり除外したりする。同じように、正常者・理性的なるものが、狂気や異常といったものの諸形態を、規定していったのである。
ではここで問わなければならないことはというのは、明確である。そうした「正常なもの」「理性的なもの」とは、どのようにして形成されてきたのであろうか?ということだ。正常/異常 の分割線は、どのようにして、誰が、もしくはどのような場合に、いつ、形成されるのだろうか?
『狂気の歴史』においてフーコーがまず直面しなければならなかったのは、そのようなことであった。正常/理性/正義/真理 の考察なくして、この探求は完遂しえない。
フーコーはよく、「真理などというものは存在しない」という発言をしたことで知られている感があるが、そのような存在論ではなく、フーコーは、時代時代や各分野における真理の形式(や正義/正常/理性)がどのようにして形成されているのか、その過程の方をいつも注意深く目を凝らしていた。その厳しい姿勢は彼の短い人生において変わることは一度もなかった、と、他の著作を通しても言えるだろう。
もうそろそろ締めくくりに入るのだが、つまりは、『狂気の歴史』で展開された一つの図式、狂気/正常(異常/正常)というこの区別は、非常に曖昧でぼんやりしたものである、だからこそ社会学はこれらをとりあえず”区別”する必要があるのだ。それは、こうした二項対立が自明のものであることを一つも意味しない。そうではなくて、そういった二項対立的な思考をそうたらしめている要因とか背景とかは何であるのか、その探求がとりもなおさず大切であるということである。かくして、②項対立の強制的・悪魔的な思考は、自由を得る。不自由から解放される。 『狂気の歴史』は、そんなことを教えてくれた。
以上
misty@
こんぱら! 風邪が治りませんmistyです!
今回は、限りなく日記、というより雑感に近い内容です。 mistyが、中2病にかかってまたそこから脱却したっていう体で、お読みくださいww
それでは\(^o^)/
@幸福
筆者は、絶対的な価値観を失っている。 「戦争は止めよう」とか、「人類のために生きよう」とか、「地球のために生きよう」とか、「命を大切にしよう」とか、あらゆる常識的な価値観が、筆者からは失われている。
というのも。
例えば、「戦争は止めよう」という価値観。極論を言えば、「ありとあらゆる戦争=物理的紛争」は、ダメなのか? と、懐疑してしまうからだ。 国家Aと国家Bが戦争を起こして、国家Aが勝利したとする。おそらく、敗戦国である国家Bは、国家Aに内包されるかもしれないし、その内包の際、非常に多くの犠牲が出るかもしれない。しかし、だ。 長い目で見た場合、誰が、”国家Bがあった頃はよかった”と断言することができようか? もしかしたら、国家Aによって内包=支配されている方が、全体的にはいい効果を生み出すかもしれないのだ。国家Aが表明する憲法的価値は、国民Bにとって国家Bが表明していた憲法的価値よりも、相対的に優れているとしたら。 すると、国家Bは、戦争に参加し、負けることによって、逆に利益を得たかもしれないのだ。
ありとあらゆる「NO!Wars!」は、このような意味において、筆者個人の絶対的な価値観足りえていない。言い訳しておくと、戦争の際に必ず生じる犠牲(徴兵、死、家族との離別、民族的アイデンティティの崩壊etc)を無視するということではない。しかし、敢えて言わせてもらうならば、”理にかなった”戦争も、あるのではなかろうか?
そう疑ってやまないので、「戦争は止めよう」というスローガンにはたちまち立脚し得ない。
「人類の為に生きよう」というスローガンも、筆者にとっては絶対的な価値足りえない。 ”人類”と限定してしまっていることで、簡単にいえば人類以外の存在生命、つまり動物や植物といった諸々の生命体が考慮から外されてしまっているのではないか? ということだ。人類が人類のためだけに生きていて、それでよいのだろうか? 何かチガう、と筆者は思ってやまない。
「地球のために生きよう」。 人類と、その他の生命体の持続可能な発展のために―。 これも、実際のところ、よく分からない。次の、「命を大切にしよう」とも関わってくるのだが、「命を大切にする」という主義は、一体何をもたらすのだろう?
結局、地球の持続可能な発展というのも、この私たちの「命」をなるたけ長く引き延ばそうとする考えに過ぎないのではないか、と懐疑してしまうのだ。
「命」が与えられて、しかしこの命とは一体何なのだろうか。生とは。 私たち、人間や動物や植物、無機物が存在することを保持することは、何の役に立つのだろう。そこがよく分からない。
こういう事をぐるぐるめぐっているうちに、ある一つの着地点に辿りついた気がする。
それは、「各々の幸福を守ること」。
これは、筆者にとって、一つの指標足りえた。そんな気がする。
承知の通り、”幸福”の定義なんて、本当にひとそれぞれだ(かつ、こんなに曖昧な概念も他に例を見ない。「自由」よりも多義的ではないだろうか)。 恋愛している時にあー幸せやなーと感じる人もいれば、仕事している時に幸せを感じる人もいる。 動物の幸福とは何だろう。植物の幸福とは何だろう。
しかし、”幸福”は、確かに私たちの存在一般に、不思議な活力を与えてくれるのである。原動力ともなる。ほんの一瞬しか感じることのできないものかもしれないけど、”幸福”は確かに私たちが所与の生を受け、そしてある程度能動的に各々の道を歩むときに、そっと後押しをしてくれる。
注意しておかなければならないのは、多義的な幸福の中にも、「それはアカン!」という幸福も当然にある。 殺人によって幸福(=快楽)を得る者、ドラッグによって幸福(=快楽)を得る者。 詳細は省くが、特に前者はリアルにダメだ。他人格を殺してまで自己の利益のみを図ろうとするのは、社会的な見地からいってアウトだ。
まとまりがよくないが、ひとまずこれにて筆者は本稿を閉じようと思う。 「各々の幸福を守る」。 このスローガンのためなら、筆者は存分に生きてもいい、そう痛感した。
misty @
こんぱら!mistyです。
今回は、「思想・哲学」のテーマで! 人が<教室>に居るときの”生”、そのことの意味を考えてみました。
おそらく、<教室>というのは、ほんとにたくさんあるんだと思います。ある意味、以下で述べる<教室>というのは、一種の権力支配装置です。 権力といえばミシェル・フーコーという感じな気もしますが笑、彼を引用することなどまだまだできませんでした(>_<) おいおいできたらいいな…。
@<教室的なるもの>
<私>たち、それぞれ肉体に宿っている諸々の意識、それは生きている=存在している。簡単にいえば、私たち人間は通常の社会の中でごく普通に生きているということだ。この省察では、それをとりあえず大前提の事として仮定しておきたい。
その上でである。その上で、<私>たちは、筆者が次のように呼称する空間=世界に、非常に強く拘束を受けている。
それは、<教室的なるもの>である。
ここで言う<教室的なるもの>の教室とは、小・中・高・大・専門学校の、あの空間のことだ。教師がいて、生徒がいて、そこでは授業が行われる。 授業には、国語、外国語、算数(数学)、理科社会の他、道徳もあったりする。
義務教育制度の下では、私たちは実に多くの時間を、教室に捧げることになる。もちろん、学校生活は教室で行われる諸活動だけに限定されるものではない。課外活動があり、体育では運動場に出たり、文化祭・体育祭ではいつもとは違った姿の学校に変容する。
しかし、筆者は、敢えて、まずあの例の教室で行われる<教師―生徒>の間の関係性、その関係性の中で経験される生、というのを主題化してみたい。
もう少し、話を具体的に噛み砕いた方がいいのだろうか。
<教室的なるもの>。 そう筆者が呼称するのはつまり、<教師―生徒>の関係において、教師が専ら生徒の現在の/未来の”生”をコントロール(支配、統治)する、それを成り立たしめている空間=世界のことである。義務教育制度の下では、例えば日本では少なくとも実に9年間もの間、人々は毎日学校に通い、そのような<教室的なるもの>にさらされることになる。
生徒の現在の/未来の”生”とは、こういうことだ。
例えば国語の時間。 国語の教科書には幾つものテキストが載っていて、それを私たち生徒は朗読したりする。朗読について、教師のチェック・指導が入る。もっと声を大きくして読むようにとか、抑揚をつけて、とかだ。そのことによって<私>たちは、文章の読み方について多大な影響を受けるだろう。 もっと声を大きくして読むようにと言われ続けた生徒は、声の大きさ/小ささというポイントについて、頭を悩ますかもしれない。その後の人生において彼・彼女は、社会生活の上で(どんな種類であれ)テキストを読む際、声を高らかに―あるいは五月蝿いまでに―して喋るくせがつくかもしれない。抑揚をつけてと指導され続けた生徒は、喋るときには抑揚をつけるのが大切なのだ!との認識を絶対的価値の一つにおくかもしれない。その後の人生において彼・彼女は、社会生活の上でテキストを読む際、抑揚というポイントに異常に拘るようになるかもしれない。
※ちなみに、テキスト(文章)の読み方などが”生”に関わるものか、という批判は、筆者の見解では無効である。現代社会においては、ありとあらゆるテキストを声に出して読む場面というのは非常に多く(だからこそ義務教育の時の国語の”朗読”の時間もその一役を買う)、そしてテキストの読み方一つは、<私>たちの<生>そのものを構成している。声を大きくしてテキストを読む人は、現代社会では、健康・誠実なイメージを与える(それが実態かどうかは別として)。声に抑揚をつけてテキストを読む人は、おそらくコミュニケーション能力の高さに一石投じている。健康/誠実/コミュニケーション能力、どれをとっても<生>に関わる事柄だ。※
さて、そこでだ。<教室的なるもの>=空間において、<私>たち=生徒は、どれだけ/どんな拘束を受けるのか。
筆者が問い続けて止まないのは、以下のような事柄だ。
”生徒は、<教室的なるもの>=空間に生存している限りにおいて、望む自由(望まない拘束を受けないこと)を獲得することはできるのか?”
結論からいえば、NOである。生徒=<私>たちは、<教室的なるもの>との関係においては、決して望むようには自由になることができない。
考えてみよう。
英語でも何でもいいのだが、とにかく授業が行われている。それは、非常に退屈な授業かもしれない。退屈でつまらない物事に、何故多大な時間とお金をかけてまで付き合わなければならないのか。 そんな時、教師から「Mr/Ms.○○、did you hear that?」と問われたとしよう。
簡単な反抗=抵抗として、まず、答えない、無視するという選択肢があり得る。しかし、これは一時しのぎにすぎない。
教師は、自らの問いかけを無視した生徒に、マイナスポイントをつける。そして、「これでは成績をつけてあげられない(=学校から卒業できない)なぁ」と一種の脅しをかける。生徒は、退学という最悪のパニッシュメントだけは受けたくない(退学は望んでいない。退学も望むのなら、話は別だ。)。ゆえに、生徒は、そのつまらない英語の授業を、どうにかして真面目に取り組まざるを得ない。
教室から逃れてはどうか。つまり、「あーもう退屈!」といって、ドラマの展開の如く、教室を飛び出せばいいのでは?
それも、結局は一時しのぎにすぎない。確かに、教室を出ている間だけは、望む自由(例えば、日光が気持ち良ければ素晴らしい昼寝の時間に当てる、とかだ。)を手にすることはできる。しかし、前述の脅しの仕掛けが働き、結局は<教室>に戻らざるをえない。
<教室的なるもの>=空間においては、教師が複数の生徒に対して絶えず監視の目を配らせている。ここで注意したいのは、その教師の監視の目というのは、実に多岐にわたるということだ。つまり、生徒の”生”に関することなら、何でもということだ
。英語の授業なら、英語能力向上における監視だけではないのだ! 英語の授業の時間でも、教師は生徒の”生”を、ありとあらゆる角度から監視しうる(おしゃべりを禁ずる、早弁を禁ずる、居眠りを禁ずる、散漫な行為を禁ずる等)。
思い返せば、<私>たちは、そんな状況を最低9年間続けていたことになる。
<教室的なるもの>が圧倒的な変容を迎えるのは、ケースバイケースな側面もあるが、高校・それから特に大学が一般的にそうである。少なくとも、筆者の場合にはそうであった。小学校に見られるような、強度の<教師―生徒>のコントロール関係は、大学では(当然だが)薄れる。
高校・特に大学生は、自ら望んで、自分の受けたい授業を、お金と時間を犠牲にして受けるのである。実態はどうであれ、建前はそういうことになっている。自ら進んで、<教室的なるもの>と付き合う。
しかし、小学校・中学校では、場合が違うと筆者は思う。小学生が、自ら望んで算数の授業を受けるだろうか、否、親が算数は大切だと言ってるから、学校に行くのは当たり前でその学校には算数の授業が必ずあるから、だから小学生は算数の授業を受ける。文字通りの受身である。<私>たちは―当たり前かもしれないが―自覚なくして、<教室的なるもの>との関係をとりもなおさず迫られるのである。どこまでいっても逃げる=拘束を逃れることが不可能な、<教室>。逃れてしまったときには既に、人<生>の落伍者として扱われるのが、世の常のようである。
<教室的なるもの>は、以上のように、非常によくできた人工的装置なのである。それは、<私>たちの”生”をコントロール/管理するのに、非常に便宜的で、かつ効率的な装置だ。<私>たちは、この<教室的なるもの>という装置に規定されて、そしてそこから改めて自分たちの”生”を生きはじめる。この点は、強調してもしすぎることはない。
最後に、<教室的なるもの>は、おそらく教育機関の領域に限らず、社会の様々な領域において存在する、と筆者は漠然と思う。そえは、社会生活の中で、ありとあらゆる場所に存在する。締めくくりめいた事を言えば、<私>たちは少なくとも、この<教室的なるもの>の匂い、空気を嗅ぎ分けて、自覚なくしてその空間=世界に入る前に、一定の注意をしてしかるべきだ。
以上
@ misty
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