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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   
カテゴリー「思想・哲学」の記事一覧

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「わたし」の存在の消去


 せかいのみなさまおはようございます、ミスティです(´∀`) お久しぶりなのに、携帯から投稿です(笑) 携帯で英字を打つのはなかなか慣れない→ミスティとカタカナ表記、なわたくし\(^O^)/


@「わたし」の存在の消去
 さて、「私は1人で生きているのではない」、と、プラス方向でドラマや小説などでよく出てくる概念。これをちょっと突いてみたら、「わたしの存在」の危うさが案外簡単に出るのだなあ、と前々から思っていて、iPod~パート2に入る前にそれに関連した小咄を入れておきます(。・ω・。 (笑)

ええとですね。
 話は簡単で、「わたし」というものは、いくら主観的に生きていようが(つまり内心で私は生きているんじゃあ!といくら強く思っていようが)、普通に客観的に捉えてみれば、「風前の灯火」のように薄皮一枚で辛うじて生きているようなもの、なんだなあということ。
 例えば。ミスティが特段誰にも告げずに1人ふらり旅を敢行したとしましょう。たまたま携帯を持ち忘れたことにします。
大好きな山(笑)に数日の間、野宿してみる。携帯を持っていることが現代社会においては、「わたし」の存在を知らしめる一大道具になっている。だから、家族や友達からは、ミスティは生きているか死んでいるか分からない、いわゆるシュレーディンガーの猫みたいな存在にたちまちなるのですな(*´∇`
 ミスティという名前を貼りつけられたこの身体は、旅中では確実に生きて存在しています。ただし、それは条件付き。主観の世界において、ミスティなる身体と意識が存在しているに過ぎません。はたから見れば(=客観的には)、ミスティは死んだも同然。

 恐らく1週間もたてば家族が警察に捜索願いを出しそうです。そして、捜索段階を経てミスティは警察に保護される。(笑)ある1つの社会制度運用によって漸く、「わたし」という存在はあらためて確認される。そして、「わたし」は遡及的に、最後に生きていたとされる時(=たとえ話で言えば、旅に出る直前時)の「前のわたし」と否応なしに連結される。そうして「わたし」は辛うじて「その間も生きていた」のだ、という客観的証明に繋がります。


人間の意識なんて、そんなものみたいです…(_´Д`)ノ~~。

 よくよく考えようが考えまいが、私たちは常にそのような意識下で生活を送っている。わたしの意識の元(=主観の世界下)で存在の確認ができるのは、一番は他ならぬ「自分」。それから、今ここにおいて五感を通じて感知する限りの他者、のみです。少し離れた(場所的・時間的離別)家族や友人の安否なんてのは本当は、私たちは常に知り得ない。こうやって僕が1人下宿先の一室にいる限りは、僕の家族や友達が生きているのかどうかなんて事実知りようがない。もしかしたら生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない(その意味では、わたし以外の他者はみんなシュレーディンガーの猫みたいなもんです、猫だらけwww)。 だけど、私達の無意識という奴は、とりあえず他者を自己の意識の中に「生かして」おく。たとえば、もし僕がリアルに家族の安否を気にすれば、まず一番に取る行動はやはり携帯電話を手に取ることでしょう(´Д`)。 家族が電話に出たら、無意識は「ああやはり生きていたんだな」と認識し、直前の家族が生きていた時とすばやく結び付ける。「すなわち家族は生き続けていた」という証明、こんな荒技を私たちは瞬間的にしかも日常茶飯事にやっている。

 とりあえず死者が蘇るという現象は、現代社会においてはアウトサイド、つまり偽だとか迷信の側の方に位置付けられています(しかもかなり強く)。だからわれわれは、その意識において他者をとりあえず生かしておく。

 この「わたし」という存在は、主観的に消去させるまでせずとも、常にその存在の危機と隣合わせになっているようです。だから、自殺なんてしなくても、「わたし」なんてものは元々が物凄くもろい。言い換えれば、言葉は悪いですが、わたしなんてものは簡単に殺せる。飛び降りなんて勇気出さなくても、ケータイの電源をポチっとな、オフってちょっと社会から離れれば、わたしはたちどころに消去されます。お手軽、わたしの消去法!(爆)(笑)

 よのなかで一番自分勝手なのは自分でもなければ社会でもない、私たちのこの意識のような気がしてきました。(笑) 私たちの意識は、他者というかけがえのない存在そのものを常に生死の天秤にかけている。基本的には「生」の秤に置いておくけど、ちょっとしたことですぐに天秤を揺らし、下手をしたら「死」の秤に載せる。 多くの人が「死」の方に載せだしたら、その他者はとりあえず「死者」と視なされる。その他者がいくら主観的に生きていようが、客観にはあらがえないみたいです。

それが僕らの作った制度(意識的システム)。
 
 この制度のデメリットを挙げれば、無意識が他者の存在を一応生かしておくことによって、私たちは以前よりもより多くの他者との関係の中に放られざるをえなくなった。 グローバリゼーションの拡がりはその典型例ですね。ほんの500年も前だったら、日本人は中東地域の正確な実状なんて知りもしなかった。だから、中東で戦争が起きようが起きまいが、それはそもそも私たち日本人の意識の「外」にあるので、彼らと関係性を持ちようがない。だけど今日国際社会を生きる現代的日本人は、いつテロリズムが世界全体を席巻するんじゃないかとハラハラしている(※別にハラハラしてない人はそれでいいんです。一般論の話です)。

 僕に言わせれば(爆弾発言もいいとこですが笑)、本来的には日本人と中東人には関係がまっっっったくない(文化の輸入だけ例外)。そもそも意識の中に、彼らと彼ら固有の生活圏を生かしておく必要がない(石油なんて輸入せずとも僕達昔から石炭だけで頑張ってきてたじゃん!)。 中東=未知の世界でのテロリズムの情勢を現代的日本人は意識しているがために、偉そうなネーミングをつけては仕事にしたり行動したりする。でも、それは杞憂に過ぎないとも言えるんじゃないか、と思うんです。 大地震や雷は完璧には防げない(「被害」をミニマムにすることは可能でもゼロにはしようがない)。同じく、テロ攻撃も本来的には完璧には防ぎようがない。

ならいっそ、そういう事を意識下の中に入れるのやめて、したらもっと他分野にメス入れれるじゃん! て感じ。

 責務を果たそうとする(平和主義を掲げる日本のこれからの行動?とかかな)姿勢はカッコいいけど、その姿勢を貫こうとするあまりがんじがらめになる必要もまた無い。

 いいじゃん。人間は、どこまでいっても人間だよ。人間には出来ないことを、人間が率先しようとしなくていいと思う。諦めとかペシミズムとかじゃなくって、前向きな方向で。脳という器官はよく暴走するけど、妄想と現実への効果の違いはやっぱり見極めなくちゃいけない。私たち人間がやることを、一歩一歩、そのままやるだけだと思います。

そんなこんな。「わたし」の存在の消去可能性の容易さの話が、こんなに膨らんでしまた(笑)

ミスティ @

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傷を、洗い流すか、それとも見守るか。


こんばんは、mistyです。
大変無茶苦茶なお時間でございます。(笑) 理由は色々とあるのですが、まぁ個人的な要因が深いです。
何が個人的かって、、

思索にふけること。(笑)

さて、今回は、きわめて短い疑問を投げかけますが、内容に関しては正直ものすごくリアクションを求めています。
人それぞれが、どういった価値観に立脚しているか。それを知りたいがために、この記事を書いてるにすぎないところもあります。時間のある方はコメント等残していってくださいな($・・)/~~~

訊ねたいのは、これです。

人の「傷」に触れたとき、積極的に洗い流そうとするか、それとも黙って優しく見守るか?

結論から言うと、私は前者の立場に属しています。それにはいろんな理由がありますが、後で述べます。

この訊ね方も少々どうよというところはあると思いますが、そこはご勘弁下さいまし。
この訊ね方で、ずっっっっと生まれてこのかた自らに対して反芻してきたからです。
(そもそも質問の立て方がおかしいよ、という意見は、それがなぜおかしいのかもゆってくれるとわかりやすいです。)

前提としては、私は、まず1誰にしも多かれ少なかれ、いけとしいけるもの、まぁ人間でいいや、人間には目に見えない各々の「傷」を抱えていると思っています。
 ここでの「傷」のとらえ方は、ちょっと変わったものですが、まぁ、ざっくり定義しておくと、当人が抱える大変にpersonalなマイナス要素のことで、非・社会的なものです。
たとえば家族に裏切られただとか、仕事で大失敗をしただとか、友達関係がうまくいかない、理念に中々達成しえない、恋愛がうまくいかないetc。

2そしてそのいろんな「傷」を受けて落ち込んだりそこから立ち上がったりして、人は成長・生きていくというカテゴライズです。つまり「傷」はそれ自体がマイマスですが、未来に向かって倍以上のプラス効果をも生み出す原動力になるもの、です。

そして、そんなときに、「傷を受けた状態」から立ち直る・復活する(こうゆうときに大きな成長が伴ったりする)時、まず往々にしてやるのが、

心の開けた人に対する悩み相談
とかじゃないですか?(●^o^●) 他愛のない話からはじまって、ちょっとしたところで切り出す。「あのさー最近おれさー」
そして、なんとなく救われたような気持ちになるとする。復活やーみたいな。
んでたいがい、逆の立場で今度は自分がその相手をしてくれた人の聞き手側・アドヴァイス側に回ることも多いじゃないですか(違いますか?笑)。

さて、この時ですよ。 私は、傷を「洗い流す」といった手法を基本的にとりたがります。
いわゆる、おせっかいというやつです。 まず、内証的に語ってもらうことで、どこに傷があるのか、どれくらいの大きさなのかをハッキリさせる。んで、そのあとに、どうやったらそれが治癒するか、または回復の方向に向かっていくか、一緒に考える。
今までずっとそうやってきました。
なぜか。
自分も相手も第三者も、みんな共通項としてのそれがあると思っているからです(経験則による類似性)。恋愛話なんかは、自分も恋愛経験あるにはあるから笑笑、わかる範囲で聞き手にまわる。 あ、こいつのいってるこれは、こういうことなんじゃないか、じゃあ、それに対してはこうしてみたり、或いはまた別の方法があったり、こうしてみれば?などの問いかけを応じてしたりもします。もちろん話を聞くだけに回る時にもあるにはあるのですが、それでも「傷」の確定・明確化「作業」にはかなり積極的です。「なんで?なんで?どんな風に?」といった、押しつけがましい時もある。
気が付いたら、そんな風に積極的な動作に走っている自分がいる。 立ち止まらない。立ち止まれない。それが、根本的に悪いのかよいのか、気が付いてみたら自分でもサッパリわからない。

前者の立場は、ただのおせっかいなのか? 時としてうっとおしい、「善意の押しつけ」なのか?
社会にこの問いの正しい答えはないが、哲学領域では常に反芻される問題でもある。

僕は、「人間だれしも弱いところがある」、という意識に強く立脚している。だからこそ、弱さ≒傷を故意に隠したり恥じたりする必要は全くないと思っている。 だれしもがおおかれすくなかれ共有・経験・有しているものだから、時には絆創膏取っ払って、その傷を見せてよ。そんな感じです。。


人を治すのは、悪いことではありません。

赤字のは、田口ランディ著・小説「キュア cure」のキャッチコピーです。 はじめてこのキャッチコピーをみたときはめちゃめちゃゾッとした。 /
・・・・・・・え?? みたいな。(゜-゜)

さあ、法はこの領域にはあまり介入しない。心理学も、「時と場合に応じて」という答えを提示する論者もいる、違う、ここで知りたいのは、他人の痛みに触れた時何故人はその行為をとり、その行為は本質的にどんなものなのか。 人情とか、個人の価値観とか思想とか、そんなものが調整原理として働いている、ととらえることができる。
あなたは、どうしてますか?また、それはなぜですか?(*´∇`)

misty @

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プラマイゼロ part2


(前回「プラマイゼロ」より続き)

でも、しばらくして僕らはまた仲良くなりました。はっきりとは憶えていませんが、まぁ、お互い、「あん時は悪かった!」程度の、子供らしい謝り方をお互いして、元通りになったのでしょう。(笑)

中学の時にも、別の親友と大ゲンカをしたことがあって、めちゃくちゃ傷ついてしまいました(相手もそれ以上にそうだったでしょうが)。 でもそれは小学生の時のような暴力沙汰じゃなくって、彼を、何を血迷ったか精神的に傷つけるような言い方をしてしまったがためにケンカになったんです。。

まぁめちゃくちゃ凹みましたよ。何やってんだよ自分って。大親友を失ったとしばらく鬱。

でも、後々、その親友の方から、「お前のコト、信頼してるから」的なコトを言われて、ほんとっゴメン!!涙!感謝!!(笑) 「こ、こんなオレでもまた仲良くしてくれるかな?」と言って、二人はまた元通りになりました。(笑)
小学生の時の仲直りの仕方とは、少し違いました。「信頼」の言葉をもらって、小学生の時はなんだか少しモヤッとした部分を残しながらも仲直りだったのですが、その「モヤッ」との部分を言葉にしたことによって、あー人と人は信頼でつながれるんやなぁとしみじみと。

高校の時にも、またケンカはありました。(笑) しっかしこれは、なんつーか、お互い、それこそ何時間もいや何日も、喋りまくって喋りまくって内面をさらけ出して、共感に至りました。 ここにきて、いわゆる「無償の愛」、お互い何があっても赦し合えるような関係を一定程度築けたことで、なんつーか、「親しい人」との関係性に於いて、なんだか自信というか、相当のプラスを得てそれは今にも繋がっています。

(2) 同質的・同量的フィードバック

以上のmistyの実際の経験を取り上げて、「人間関係(特に新密度の高いそれ)における人生の経験」値の絶対値総和を図ります。
ちなみに、新密度の高い人間関係は、僕のかけがえのないものの「一つ」になっていることが前提になっています。僕の人生そのものを支えてくれ、時には自らなりふりかまわず投げ出してそこに生き、意義や本当の喜びを噛み締めることも当然あります。「友達ありき」の人生、ですから。mistyの人生はそうなっていると、ご理解下さいませ。
さて、小学生の時のケンカによって引き起こされたトラウマだとかの経験、マイナスを、仮に(-5)と設定します。まぁ本当に、親友との大ゲンカなんてリアルにその当時までは初めてだったもんですから、ホントに傷ついたんですよ。あーもーこれであいつとは終わりなんかなーホンマ寂しすぎるー(p_-)的な。

そして、もやっとしながらの和解によって、一応の回復はしました。でも人間関係における自信全回復には程遠かった。 ゆえに、(+1)としませうか。 ・・・現時点、(-5)+(+1)=-4

中学の時のケンカによって引き起こされた負の値、マイナス3。「お前を信頼してるから!」と言われた時の、救われた感プラス4。 大きかったです。あれだけ精神的に傷つくこと言ってしまっても、こいつはまだ信頼してくれてるんやって思った時は。  ・・・現時点、(-5)+(+1)+(-3)+(+4)=-3

ちょっと回復してますね。
んで、高校の時のそれは、リアルに今のこんぽんてきな基軸としての経験に「なって」います。数値価することにどれだけの意味があるのか(これについては、後の括弧3で記述。)って話ではありますが、プラス10に設定しておきます。  
総括です。 (-5)+(+1)+(-3)+(+4)+(+10)=+7
捨象具合もありますが、おそらく今雰囲気で数値化すると、人間関係における経験値の総和は現時点でプラス7ってことです。

(3)説明

(-5)+(+1)+(-3)+(+4)+(+10)+..............................+?=0

さて、初期に与えられたマイナス5の経験が大ダメージでありました。しかし、それは、後々において、徐々にではありますが、プラスの経験によって「調整」がなされている、との見方もできるというのがこの自論(造語も甚だしいですが)「同質的同量的フィードバック」の考え方です。

はじめにご説明しておきますと、例えばある何らかの痛みを受けた場合、全く同程度・同量程度のプラスが加わってゼロになるという短絡的な話ではございません。
(-5)+........+(+5)=0
 

確かにこういうケースもありうる可能性は肯定しますが、

そんな簡単に人生うまくはいかないでしょう?苦笑


痛みを受けた分同じ程度の幸福が必ず毎回返ってくるのであれば、それはそれでいいと思います。そんな事例もあると思います。ただ、私が例で取り上げた事例はそんなにはシンプルではありませんでした。それでも、結果としては同質・同量程度のフィードバック(つまりマイナスに対するプラス、プラスに対してはマイナス)が起こるという定立です。

話を元に戻しますと、マイナス5の経験は、そののちの「あやふやな仲直り」によって確かに回復は図られています。しかし、完全(+5かそれ以上のプラス)な回復ではありませんでした。
中学の時のプラスは、なかなか大きなものでした。
ここに、徐々なる還元があったと考えることができるのです。
ざっくりいえば、小学生の時に負ったトラウマは、完全には治ってはいなかったものの、時を経て、また回復する機会があったと見るわけです。
現に、小学生の時のもやっとした感じは、確かにこのときの経験によってなくなりました。
そして、高校時っす。これは大きかったです。トラウマを超えて、対極の「自信」に繋がりました。人間、そっとのことでその信頼関係が壊れるものではない、相手に対する思いやり、気持ちが充分にあって実践していけば、必ずいい関係が作れる! との思いに至ったわけですから。 
ここでは、還元以上のプラスを得ました。が、まぁ、都合上総量はプラス7になってますよね。

まだ私もハタチで、むしろこれからの経験だと思ってます。負(マイナス)の経験も、(そして同じようにプラスの経験も)待ち構えてると思います。そして、終局的には、ゼロになると考えます。実にいろんな経験を踏まえた上で、ゼロになるんすよ。

どんな場合であってもそうです。 経験が少なくても、足したらゼロ。
人生というtime accountの量(years)が少なくても多くても、足したらゼロ。
誰の人生においても、足したらゼロ。

そして、便宜上、数を使って説明しましたが、正直、厳密に数値にできるものは決してないです笑 でも、目安としては客観性が図れるという事で、あくまでも分かりやすくするため数字を使いました。

3、プラスとマイナスの客体

さて、例えばなしからずーーーーーーっと、プラスとマイナスの客体を、心理面においていました。(笑)

これ、つまり、裏を返すと、客体の対象をシフト転換することによる応用がきくと私は考えています。
心理面ではあんまあの時の体験から報われてないあぁ・・・とするじゃないですか。じゃあ、おのずから積極的に、その経験の絶対値の対象を切り替えてみればいいんです。
例えばぼくは、本当に恵まれているなぁと多々思うのですが、「親友」となった人とは、やっぱりケンカとかを経ても、今でも親友として相変わらず続いてるんですよね。
でも、終わってた可能性も十分に在りうる。
例えば、中学の時の親友とのケンカの後で、向こうからの切り出しが無かったら或いはリアルに親友の地位は気付けなかったかもしれません。
変な仮定ですが、仮にそういう仲直りの契機がないまま、そいつとは終わってしまった・口をあまりきかない間柄になったとしましょう。
それでもやっぱ、引きずってるんです。
でも、他のどこかで、「人間関係、時には割り切ってみることも大切なんだ!!」ということを学んだとしましょう(事実、メチャクチャ大切な考えだと思いますww)。

そして、あいつとあの時点で切れてしまったのは、きっとこういう事を学ぶ機会でもあったんだと開き直って、クヨクヨ状態から復活したとしましょう。
確かに、新密度の高い人間関係の修復、ことに「その人(the person)」との関係は終わっています。数値的にもマイナスのままです。
しかし、新たな視点(評価の客体)が加わった事で、逆にその経験を活かすことにもつながりました。こういう意味では、プラスになった=調整がなされた、といえます。

プラマイの客体を変える(この場合、人間関係の見方の変化性)ことでも、調整がなされたと考えることは充分にできます。

4、今までのまとめ

以上が、私の私なりの人生観の一つであり、主張したかったことです。
基本定立。 基本的な考え方。 応用。

もちろん、これがすべてであるなんて一つも思っていません。何べんも言うように、思考・実践の蓄積の総体です。これからもその蓄積は溜まっていくという意味で、いわば「絶対的」(そもそもこんなコトバ使いは私はあまり好きではありませんw)な答えなんぞあるはずもありません。

ただ、こう考えることによって、うまくいかないなー最近って時に、なんらかのプラスの作用が少なくとも僕には生まれてから今に至るまで、一定程度有効に働き続けています。

それは、客観的な事実でもあります。 それだけを伝えたくて、二回にわたってお送りしましたー@

それでは、part3に移りまして、最初に述べていた「平等」の原理にもつながるといっていた部分を記述します。
はじめに、のべておきます。
この自論による「平等」観念は、プラマイゼロの観念よりさらに、独りよがりの思考体系です(笑)
 ゆえに自分哲学と定義しておきながら、正直言葉にすることにどれだけ意義があるのか正直私自身が今時点で戸惑っています。(笑) 

まぁ、おそらく鬼畜にしか思えない記述内容になることが容易く予想されますので、そのことだけははじめにことわっておきます(笑)

それでは、part3でまた!
misty @

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プラマイゼロ


・・・。 現在、なぜか、ロシア連邦にお住いの女性(27)から熱烈なアピールを受けているmistyです。笑

あいさつがおくれました、世界のみなさまこんばんは。

上記記述は事実です。笑 ただしネット世界のことです。 しっかし、悩み所が、本当にその方かなーりかわいいんですよーーー7つも年上なのに!現地妻、7番目の夫にでもなろうか、、でも日本とロシアってどないやねん!笑

そして、久しぶりに学校に行けるぞ!と決意をした朝、昼夜完全逆転生活のせいで1時間半前に起きたmistyです。最大の問題です<(_ _)> 
ヘルプミー!明日までに必ず直すと自分に誓って・・・!!ぐぉぉ!

@プラマイゼロの論理・思想
負のスパイラル。
なんやウチの兄弟の病がなかなか治らない、自分の部活動での成績が最近ふるわない、勉強もなんか下がってきた、唯一の救いの恋愛もなかなかうまくいかない・・・。 些細なことから、重大なことまで、自分にかかってくる「災難」。それが、なぜか次から次へと降りかかってきて、うまくいかず終いには落ち込んでくる。 そんな経験を、したことはありませんか?
僕は、まぁ自分の帰責性も含んでいるとはいえ、何回かあります。幼少から、現在に至るまで。「なにこれ、祟り?? 試練の時??」とかその場しのぎで自分の内に言い聞かせて、頑張ろうとするのですが、なんか解決の方向に向かわない。
こんな場合、私、どこからともなく「プラマイゼロ」の思想で乗り切ったりします。プラマイゼロなんて言葉、よく言われてそうですが、私の場合は自分の思考の歴史を含んだ、アレンジがかった思想・考え方になっちょります。。
私の「プラマイゼロ論理・思想」の定立は、こうっす。

「人生は、プラスとマイナスの経験の連続であり、それらを換算すると必ずゼロになる」

だから、最近嫌なことばっかやなー思っても、それはたまたまそうなだけであって、後々「何らかの形で」微調整が加わる、ちゅうことです。
A(-1)+(-2)+0.5+(-3)+........B+1+(-1)+2+(-0.5)+....C+3+1+(-0.5)+2+......=0
Aの時は、負のスパイラル。厄年の理論かもしれません。w
Bの時は、まぁ普通のとき。波乱万丈とまではいかないけど。
Cの時は、トントン拍子に事が進んで行ったりする時。
この場合、プラスの値の対象になるのは、仕事が達成した時の充実感・満足感だったり、幸福、リラックス、感動、喜びetc。 マイナスの対象は最初のたとえ話のような、病苦、悲しみ、苛立ち、悩みなどなど。
  そして彼の人生において、彼は様々な経験をつんでいく。プラスもあれば、マイナスの時もある。けど、彼の全人生に於いてそれらを純粋に抽出した時、加えると必ずゼロになるんです。 すべてのいけとしいけるものが、ゼロということです。この場合、ゼロは「何もない(無)」といった負の意味ではないことに留意。
すべてのものがどんな歴史を迎えるものであれ、終局的にはみんなゼロという意味合いから、「すべてのいけとしいけるものは平等である!」という考えにもつながります。これについては後々詳細を。

さてさて。もうちょい、妥当性を検討していきます。
 
1、意義
前出したたとえ話のように、災難がふりかかりまくってる時、「おれの人生呪われてるー最悪やー」って悲観的になるよりも、こんな考え方をしたら立ち向かって行けるんじゃないか、と私は思って、自分の人生で実践してます。
要するに話は簡単で、今災難が次々と降りかかってくるように思えても、それは偶然なのか・例え偶然ではないにしても(※偶然性、必然性の要素は、まだ考えがまとまっておりませんのでご容赦下さい(+_+) )、いつかは何らかの別の形で報われるようになっている、つまり、この先ずっと苦難が続くわけでは決してないんだ! こう思えたら、たとえ理不尽な毎日が続いても、「明日はきっと晴れる」をずっと胸に抱いて、心が折れそうになっても立ち向かえそうと、思いませんか?
ちなみに、前出の例で、C(トントン拍子に事が進む時)のような毎日が続いた場合、この「プラマイゼロ」をあてはめるのはあまり宜しくなさそうですね汗 「いま、こんなに自分幸せやけど・・・いつかは、この返しみたいなもんが待ち受けているんだろうか・・・」的な委縮効果を生み出しそうです。この点は、確かにこの考え方の欠点だとは思います。

しかし、プラマイゼロの考え方は、自分の人生でA(よくないことが続いている時)のような場合に、あてはめるという点にこそ意義があると考えられます。

2、因果応報なのか?
 先ほどから括弧括りで、「何らかの形で調整がなされる」と述べてきましたが。それが、いわゆる「因果応報」なのかは、実は私、この部分については実学的な確定はしていません。
仏教の教えとして説かれる「因果応報」と、私が思っている「何らかの形」は似ている箇所もあるのかもしれませんが、これは数年の自分よがりの思考の蓄積に他ならないので、ひとまず別のものとお考えください。
それでは、便宜上、「同質的同量的フィードバック」とでも呼びますか。笑 ちょー簡単に要約したら、 A・・・良くないこと続きの日々、このA内に含まれている負の質・量の「絶対値分」が、後々、たとえばBやCの日々に於いて、同質・同量程度に還元されていく、といったものなんですが・・・。意味がわからんとおもうので、詳細にのべさせてもらいます。(笑)


(1) 具体例
便宜上、例え話から、説明させて頂きます。

実例として、私の思い出をとりあげます苦笑

私には、それこそ幼稚園に入る前からぐらいの、幼馴染がいまして。仲良かったんですが、確か小学5年か6年生の頃にそいつとメッチャ大喧嘩をしたんですよ。 私は友達にまして暴力(物理的な)を振るうなんてこと、絶対したくない思ってたのに、些細な事がきっかけで、そいつと小学生なりの暴力沙汰喧嘩になっちまったんです。苦笑まぁ、暴言・暴力・裏切り・裏切られたの思い。家に帰ってみれば、後悔の山ですわなー。
もう一生絶交じゃとか言ってまった・・・一番の親友に暴力をふるった・・・かけがえのない友達を、失ってしまった・・・

それからも二人はしばらく顔も合わせないスクールデイズがしばらく続いたそうなwww

それからの私には、その体験がけっこうトラウマになっていました。友達は本当にだから大切。暴力なんてそうそう簡単に振るうものでもない。そんなことで友情が傷つくのが何よりコワい・・・。
 
(こんなトコで区切るのオカシイですが、続きとさせて頂きますw)

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「音楽の力はすごい!」はホントか?part3.

えーと、忘れないうちにはやく書いておきます。(笑)

既に表題の件については、検討を終えましたので。
「感情」と「論理」は、どのように在るべきか。4aの箇所で提示したことを、最後に検討して締めくくりたいと思います。
その前に、自分でも若干書いていることがところどころ粗雑だなーと思うので、今まで検討してきた内容と重複しますが整理しておきます。

5a 感情と論理。「感情論」と「理論」でもいいです。あくまで、人間の、社会における行動の原動力のそれとして語っていることに留意して下さい。かるーく、自分なりの言葉の定義をかけておきます。辞書で載っているものとは違うと思いますので。
感情・感情論とは、人間が誰でも持っているものであり(一般的にそう思われる、ということです。全てがといってるわけではありません。)、典型的には喜怒哀楽だとか、人情だとかして語られるソレです。
 論理・理論とは、これもまた人間が普遍的に備えている力であり、物事を理性によって考え、合理的・妥当な解決を導き出すものです。基本的には思考力を必要とし、主張(問題提起)・論証(理由)・結論の3つによって組み立てられるものだとします。

5b 以上の定義による限りにおいて、両者は「いかにそれが説得的・妥当であるか」で評価をされるものです。説得的とは、いかに多くの人に賛同を得られるか、妥当とは本質に近付いているものであるかということです。 たがいがたがいに人間の行動の原動力となりうるものですが、それは今まで話した通り、いくつかの重要な点において性質を異にしています。幾つか列挙しておきます。
1、まず、変化性に富んでいるか、富んでいないか。感情は移ろいやすいものであり、反対に理論(理性)はそうそう簡単に動くものではありません。 評価としては、変化に富んでいるということは、機転が利く分確定性に欠けるということです。変化に富まないことは、機転は効きにくい反面、安定性を備えているということです。
2、上ではどちらも人が普遍的に持つものだと便宜上定義しましたが、実は違うと考えられます。というのは、脳の発達の具合によって両者の成熟度が異なるからです。脳の発達は人間の成長とリンクしてます。幼児~子供は、物事の決定・行動に於いて感情が働く場面が多く、いわゆる「思考力」というのは、先天的に備わっている理性に「勉強」によって磨きをかけ、時間をかけることで成熟するものでしょう。
3、2と関連しますが、時間ーもう少しスケールの小さいーのかかり方です。基本的には、感情はパッと湧くものであり、理論は精密さが求められる場面が多いが故にある程度の時間timeがかかるものと考えられます。もっとも前者にしても、瞬間的に嬉しいだとか悲しいだとか感じても、それがある行動の原動力として備わるかどうかはまた別の問題であり、その意味においては時間がほとんどかからないということではありません。あくまで一般的に、感情によって組み立てる方が早く、理性を発揮して組み立てる方が時間がかかりやすいということです。

5c さて、3と4b以下で、この感情と論理(理論)の功罪について検討をしました。急ぎですが、問題提起に対する、考えられる手段を示しておきます。
(あ)行動の原動力を、「感情・感情論」に置く。
(い)行動の原動力を、「論理・理論」に置く。
以上の2つです。しかし、もうお分かりだと思います。どちらも妥当ではありません。はしょって簡単に論証します。
(あ)・・・ 4章で見たように、感情の「罪」の面として、1、行動の結果がマイナスに働く危機を孕んでいる2、感情だけに頼ると、時に機能不全に陥る3、移ろいやすく、確定性・決定性を欠くといったものがあります。もちろん、裏返しの「功」の面が奏して、結果・解決への道を妥当なものにしていくという可能性も十分にあります。組み体操の直前の掛け声が本当に仲間の「団結心」とやらに響いて、練習の時はうまくいかなかった演技でさえも大成功を迎えた、ということはあると思います。
 ただそれはあくまで「可能性も十分に考えられる」というだけの話であり、マイナスな結果を招くこともまた十分に考えられるのであって、その意味において全く妥当ではありません。
(い)・・・理論は、現実社会を考え見れば、支配的な立場をとっています。ただそれだけです。それが真にーあんまりこんな言葉は濫用したくないのですがー問題解決のファクターとして機能しているかどうかは甚だ疑問です。
理論の国、アメリカ。これは「国家の品格」の著作者として知られる藤原さん【※1】がそれにおいて使っている用語なのですが、そもそもこの論理的な人種結合体であるアメリカ合衆国が00年代に引き起こした、イラク戦争だとかサブプライムローン問題だとかは、びっくりとしかいいようがありません。
 また、2章で触れましたが、日本の裁判所ー権威高いとのイメージも強くある最高裁判所も当然に含めてーは、訴訟に於いて判決を言い渡す時、判決文を読みあげます。その判決文は、法的三段論法(規範定立→事実への当てはめ→結論)に基づいています。しかし現実は、最近どうやらマスメディアがこぞって関心を示したように思われる報道のように、必ずしも妥当な結果を出し続けているというわけではないのです。足利冤罪事件。当時の最高裁判所長官は、極めて妥当な審理であった、と阿呆の報道記者に語っていました。しかしそれは、ある程度に於いて本当です。最高裁判所は下級審が示した事実認定に基づいてしか審理をすることができないのですから。
ただ、結論・結果としては、僕も思うのですが、相当程度誤認の可能性が高いなぁと思っても、「冤罪」という残酷・マイナスな結果が国家レヴェルによって起きているのです。別に冤罪事件だけに限りません。しかしここでは司法への懐疑の話は省かせて頂きます。だって、「司法への懐疑」っていうタイトルはテーマが大きすぎて、一生かかっても論文書ききれそうにありませんもん。(笑)

5d 以上のように、(あ)も(い)も、アウトでした。そして、考えられる次の手法。
(う)感情と理論を巧く使い分ける

はい、いわゆる折衷説とかいわれるようなお話ですね。折衷なんていうと聞こえがいいものの、これじゃあ何の解決にもなりません。
焦点は、「どうやって巧く」使い分けるのか、といった所に移るわけです。


思うに、今まで述べてきたとおり、論理は確定性・根を張っているという所に一つのadvantageがあります。殊に近代西洋から受け継がれているその様々な思考法は、それなりにー少なくとも300年間くらいはー時間をかけられているのであり、いわゆる「重要人物」とよばれるような人々によって様々に運用・検討され、成熟してきました。元来精密さを求められるが故に理性を軸にして思考して構成されるものですから、それが歴史的に見てある程度の長さをもってきたということは、その成熟さは評価していいでしょう。「まぁ、300年間途切れることなく深く考えられてきたモノなら、そらいったんその力は認めてみるのもいいかもな」くらいです。

1、まず、解決を導き出すにあたっての出発点は、論理の場に設定します。感情論ではありません。「絶対大丈夫!」呪文、「音楽の力はすごい!」等の爆発的即効力には、制限をかけるべきだからです。はじめがグラついていると、ツイスターは永遠に完成しません。この出発点としての論理を、なんとなく思い付きで例示します。
(環境汚染が最近大問題だ。解決としてはどうすればいいだろうか。)
ここで、まず環境汚染の引き金となっている要素を抽出することはとても大事な作業だと思います。
(昨今の環境汚染の要因は、、一つは森林伐採か。
     →生態系への悪影響→酸素減少→火災肥大化 → 大気汚染
森林伐採 →森林伐採地域への社会的損失・貧困→ 更なる森林伐採
     →土壌汚染 → 砂漠化現象
     →「焼畑」等によるCO2増加 →酸性雨・二次災害
     →・・・(まだまだありますが地理の記憶がorz)
まだあるよな・・・。 あ、発展途上国の第二次産業化もあるなぁ・・)

そして抽出した後、ストップの方法を論理的に思考します。
主張したいのは、出発点としての理論は、その決定性をできる限り高く高く上げておくことです。 過程の段階で、新たな問題が浮上しても対応できる素材が備わっている可能性が高くなるからです。

過程の段階では、論理の実践に、感情論を加えるのが妥当だと考えられます。
往々にして、理論・論理は、し尽くされてしまうとそれでハイ終わりという感じが否めません。何の為の理論なのでしょうか。問題解決としてのそれでなければ、それは最早理論という名に相応しいとは到底言えない、と私は思います。 時間がかかってコストが合わないのでしょうか、はたまた時間がかかりすぎて本来の目的を忘れるのでしょうか。それなら、コストがなるべく減るような議論法等をまた別個に検討するのが筋ですよね。アメリカでは「議論方法」的な講義が、各大学に普通に設置されているそうです。なんで日本にあまりないんでしょうかね(ウチの大学にはそれっぽいものはあっても、少人数制のマイナー形式をとっていました)。

話が逸れましたが、とにかくハイ終わりという事態をなるべく防がなくてはなりません。さっきも言ったようにコスト消費が甚だしい等でモチベーションが低下するといった現象が起きるのであれば、そこは感情論の出番です。何の為に理論を応用していっているのか、それは・・・! こんなビックリマークがつくぐらいの感情論で、また人々の心に灯をともせばいいわけです。感情の良点、変化性に富むが故になるたけプラスの感情が働いて妥当な結果(エンジンを再起動する、といった意味合いでの)を得ようと模索するのが重要であると思われます。

そして結論に至る最終段階の一歩前では、両者それぞれからもう一度検討し尽くして見るのがいいと思います。論理がいかに成功的であっても、妥当な感情が伴わなければ、より普遍的な”暫定的答え”にはならない。反対に、いかにプラスな感情があったとしても、論理に少しでも破綻があれば地盤は崩れてしまう。

結論を出す段階では、論理をベースにしていくのが妥当であると考えられます。感情論の機能不全の如き、予期し得ない現象を招く思考法ではマズいからです。

6 以上が、いい加減もいい所、感情と理論はどのようにして応用されるべきか、の段階的な検討でした。いい加減もいい所です。5dで提示した私の考えは、恐らく考えている以上に「考え」になっていません。
煎じつめれば、恐らく感情のもっと具体的な定義、理論の定義、そして両者の関係性をもっと深く検討しないと上のような答えでは全然説得力が無いと思います。

それでも、科学万能主義でもない、感情一本でもない、人間らしい、社会問題への妥当な解決への導き方として、もう一度皆さんに考えてもらえる契機にでもなっていただければ、本稿は大成功と言った所でしょう。だってこれ、全然論述じゃないし。(笑) はじめはそのつもりだったんですが、書いている内にこれテーマでかすぎ!となって、もうエッセイみたいな語り口でいくしかないなと思ったんでえすもの。

最後に、「音楽の力はすごい!」 私は、この言葉は拙な表現でいえば、信念としてのそれを支持します。まがいなりにもバンド活動等を5年近くやっていて、それを肌に感じるからです。

しかし、社会問題への解決方法の切り口としては、恐らく相当力に乏しいと思います。一つは、音楽は未だエンターテイメントとしてカテゴライズされ、社会の世界に出てくるファクターとしてはあまり注目されていないと感じるからです。ハッキリ言うと、僕は、音楽はどんどんそのプロパティを広げ続け、いろんな場面ーそれこそ「科学」のようにーで活かされる可能性がいっぱいあると考えています。それについてはまた、この場で発信するかもしれません。 しかし現実は、まだまだですね。

政治・経済、様々の世界に於いて、登場するファクターは今や多様化している。そこに、「音楽」という一つの芸術の大胆な登場・活躍を、私は切に願ってます。むしろそうなるように活動していきたいとさえ思います。

「難しい時代」だからこそ、なんでしょうかね。ちなみに、この言葉、大っきらいです。(笑) 時代に難しいも簡単もくそもあるかい!!!

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「音楽の力はすごい!」は、ホントか? part2.

4b. 感情って、典型的には「喜怒哀楽」ですよね。
私は、この「感情」だとか「人情」だとかいうものも、ある程度の良点・そして(当たり前だが)反面として欠点があると思います。
良い点については、まず、人間の行動の立派な原動力になりうる点です。マンガを描くのが好きで、マンガ家を志望した。イラク戦争の報道を見て憤怒し、戦争反対の運動に目覚めた。つらい恋愛を経験して涙して、結果強い人間になれた。リラックスして、仕事に臨むことができた。
立派な原動力だと思うし、それ自体に、問題は特にないと思います。
 次に、コミュニュケーションの大きな支えになりますよね。「人情」なしでは、人間らしい人間関係は望めない。僕はそう考えてます。ある人が、つらい思いをした。きっと、その人は誰かに悩みを聞いてほしいと思うでしょう。こんな時に、「相談に乗ってあげたい!」とか、「かわいそうだな・・・」っていう人間らしい同情心だとか、親切心だとかが働く人は、悩み相談に付き合ってくれて、つらい思い人をした人は報われたりするでしょう。 はたまた、何人かでなんらかの行動actionを起こす時、いわゆる「一致団結」の心はとっても大事だと思います。互いに互いを支えて、そしてある目標を達成したい。これらは、コミュニケーションを図る上でとっても重要な機能を果たしてくると思います。思いがバラバラでは、組み体操なぞ決して完成することもないでしょう。
「音楽の力はすごい!」ー表題の言葉、私はよくライヴで聴きます。元々ライヴ観戦とか大好きなので、よく足を運びます。ライヴっていうのは、アーティストと観客のコミニュケーションの一つなんですね。とにかく、そのアーティストが大好き!って思ってる人同士が集まると、もう熱気なんかハンパないわけです。あの瞬間だけは、本当に不思議なもので、アーティストがサウンドを鳴らし、僕らが熱狂して、たまにMCで「最近の世の中ってさ、暗い話題が多いよね・・・でも、この空間の熱気を世の中に伝えていこうよ!」とか言われたりすると、とんでもないほどの一体感が生まれるわけです。実際、こういう一体感を味わえるライヴも数は多くはないと思いますが、私が高いお金まで払ってよくライヴ観にいくのはこういう一体感・幸福感を味わっていたい、と思う所に理由の一つがあるのかもしれません。

4c 話が少し逸れました。(笑)では、欠点。良点の性質上、そのまま裏返しです。
まず、原動力になりうること自体は評価できても、その取る行動がプラスでないと妥当ではないんです。楽しむことに没頭して、頑張ることを忘れてしまった。人を愛するあまり、盲目になった。 悲しんで立ち直れずに、自暴自棄になった。 どれも、「マイナス」と社会的には捉えられる結果です。
次に、人間社会における最重要と言ってもいいくらいのファクターであるコミニュケーションへの機能に関しても、問題の焦点はおそらく「感情論」の機能不全です。順を追って説明します。
さっきの例ですが、組み体操。「みんな、絶対に成し遂げようぜ!」「おぉ!」、典型的にはこんなセリフではじまるのではないでしょうか。(笑) しかし、事実、いくらこのとき「団結心」が高まったとしても、演技を左右するのはもちろんそれまでやってきた毎日の練習だとかがより決定的だと思うんです。仮に、めちゃくちゃ練習していたはずの演技が大失敗に終わったとしましょう。なぜ、そんな事が起こりうるのでしょうか。
考えられる要因として、私は「感情論の機能不全」と勝手に命名したものを挙げます。心理学を勉強したことがないのですが、そちらの分野などではちゃんとした学術用語があったりするのでしょうか。
つまり、先程の掛け声ー「みんな、絶対に成し遂げようぜ!」「おぉ!」ーは、団結心を高めるという名目で、実際的には、制約の方面に働いてしまったということです。掛け声で「なんとなく」テンションが上がると、往々にして人は瞬間的にそれまでの不安感だとか恐怖を忘れる。でも事実、心の奥底に残っている。「大丈夫、きっと成功する・・・。」と、心で唱えていると、演技の成功への不安感は一時的に去る。フィルターがかかるんです。でも、ふっとそのフィルターが外れる。例えば別の感情がおそってきたときなどです。「ここまでうまくいったぞ!・・・あれ、次はどうやるんだっけ?」と思った瞬間、「絶対大丈夫」の暗号に縛られていた不安感・恐怖が、新たなる恐怖によって呼び起されるわけです。「あれ、さっきまで大丈夫や思ってたのに・・・」。
さらに厄介な事に、この呼び覚まされた不安感は、他人へ伝導します。強度の「団結心」の一致を目標とした瞬間、それは「もろ刃の刃」となります。みなさんも、経験はないでしょうか。たとえば、テニスの団体戦。自分の出番は、三番手。一番手、二番手は学校も誇るめちゃくちゃ強い憧れの先輩。でも、なんと最初の試合で先輩が負けてしまった。胸がなんとなくざわつきます。そして二番手の先輩も負けてしまった。不安感でいっぱいです。「よりによってあの先輩が負けるなんて・・・。自分は・・・」という思いは、不安へと変化し、やがて緊張感など様様なマイナス感情を伴って、結果、自分も負けてしまう。こんな時、団体戦で必要となる「団結」は脆くも崩れ、人から人へとマイナス要素が伝導していくわけです。
 
 組み体操の例だと、ピラミッドに登る時、なんとなしにいつもの練習でうまくいかなかったことを思い出した・またはコツを度忘れしてしまった。顔が曇っているのか、なんとなく他の仲間も不安そうだ。そして、結果失敗に至るわけです。

4d 「団結力→団体競技の成功」というこの定式化は、明快このうえなしです。しかし実際には、より複雑で、団結心は度を過ぎた自信に繋がり、それが盲目となり、そして別の要因で不安・恐怖・マイナスの感情を呼び起こし、他人に伝導し、団結力は瓦解してしまうという構造です。私は、経験則上こういったものを何回か知っています。

では、団結力がそんな簡単に壊れないように、もっと日々の練習だとかで磨けばいいじゃないか。そんな返しもあるとは思います。しかし、「どのように」磨くのかがまさに問題なのであって、例えば「毎日必死に練習すればきっと成功するよ」といった理想に過ぎない思いで取り組んでいたのでは、恐らく同じ事が起きる可能性は高いでしょう。

そして1点目、2点目を踏まえて、「感情」の大きなマイナス面だと考えられるものが、移ろいやすいということです。文学面では、日本でも平安時代から今に至るまで、「情緒ある」「趣のある」として評価されていますし、また僕も日本文学は好きですし、そういった心情の移ろいを重視する立場は評価できると思います。しかしそれはあくまで文学の範疇であって、社会的には困ったことです。否恐らく「社会が」困ったことにしているという要素もあると僕は考えているのですが、本稿ではその検討は省きます。
移ろいやすい、変化性の過多というのは、物事を確定させる性質としてのprojectには、実に不便です。勉強は予習復習が大事!と思って最初は熱心に取り組んでいた小学生も、3日後には机に向かう姿勢すらなし。社長がこれ以上仕事を突き詰めるのは僕にとって酷だから、といって会社がいちいち倒産していたのでは、会社員ーだけではないですがーキリがありません。事実、上のような例は別に稀に見る現象ではないと思います。

「音楽の力はすごい!」
この言葉は、このような文脈で一般性にかけます。
前例の、ライヴの件。みんなの大好きなアーティストが、「音楽の力はすごい。この暗い世の中を、音楽の力で変えよう」と言い、僕らが熱狂する。そこにはいわゆるさきほどの「感情論の機能不全」の如きマジックがかかっていたりという危機を孕んでいたりするわけです。「『音楽の力』の社会への強力性→社会問題の解決」、これまた分かりやすい定式化ですが、1そもそも「音楽の力」がどのように働きうるのかといった側面で妥当・妥当でないが評価される、2たった一日で決定的だと確信したそれは、別のファクターによって簡単に打ちのめされる危機を孕んでいる、3そもそも論として「音楽の力」への信頼は、文字通りの『信頼』でしかなく、『信託』のような確定性を備えたものではないーー などの理由で、説得的には程々遠いということです。
それゆえに一般性(不特定多数の人々への働きかけがある程度有効であるということ)に欠けるのです。

表題の件については、これで論証終わりです。
焦点を、再び「感情と理論の機能のさせ方」に移します。

(part3へ続く・・・長い・・・)

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「音楽の力はすごい!」は、ホントか?

不特定多数の皆さんこんばんわ、mistyです。
この一週間だけで、3曲も曲が産まれました($・・)/~~~ 豊作でんがな!!

では早速、表題の件に関して。
結論から言うと、私の考えではNO!です。

「音楽の力はすごい!」

この言葉は、多分に普遍性・一般性に乏しい。
1、理由としてもっともすぐに思いつくのは、「音楽を嫌いな人にとっては何にもならないから」です。しかしこんなのは当たり前。芸術・文化としての音楽は、当然に好き・嫌いといった感情論で批判される対象になるのが前提となっているからですね。

2a、私が主張したいのは、そうした音楽嫌いの人を排した中でさえも、やはりこの言葉は普遍性に欠けると思うんですよ。

なぜなら。
この言葉の使い方・使われ方は、精神論で片づいてしまっている所が多々ある、と思うから。
ぼくらがこの言葉を口にする時、それは多少なりとも感情のこもり過ぎた状況に陥ってはいまいか。

私は世の中は、悲しくも、感情論・精神論では構成しきれていない。むしろ昨今の現状は、被支配的になっていると考えます。
ちょっとだけ補足説明します。

2b、私は感情論の対極に、「理論」と呼ばれるものを置いています。科学scienceを根本的に支えているものが「理論」だと思っています。
そして、日本においては、開国以来科学と共に理論の世界があらゆる分野で台頭してきたんじゃないかなーって思ってて。
いわゆる化学・物理・生物・地学等のscienceの領域から、従来はあり得ないと考えられていた分野にまで応用されていると思うのです。
 簡単な話が、法学。 法=社会秩序の維持に関連する当為の法則(~であるべきだ)は、ざっくばらんにいえば、人の社会生活にあらゆる角度からかかわってきますよね。
法学の基本的・根本的な思考に、有名な「法的三段論法」というのがあります。大前提(人を殺したものは死刑又は無期若しくは5年以上の懲役刑に処する)→小前提(Aは他人であるBを殺害した)→結論(Aは死刑か、無期懲役か、5年以上の懲役刑に処せられる)という極めて明快なものです。 裁判所はこの構成に伴って判決文・理由を言い渡します。学者は一仕事として、大前提である法律以下の法の在り方を検討します。
この思考法はもはや法学の古典的・伝統的な地位を占めています。これをはずしてはもはや「法学」としては完全にアウトです。


2cそして昨今においては、なんと「心理学」というものまで!「無意識」論しかり、「義理と人情」論しかり。 いやはや視覚的に見えないものにまで科学ひいては論理というものは入り込み、そして説得力を以て人々の賞賛を得てきていますね。

3、しかし。世の中、本当に理論が全てなのか?というと、それは違うと主張している方々もたくさんいます。いわゆる「科学万能主義」に対する批判です。私も、理論がすべてではない、と考えています。
問題の焦点は、感情⇔理論、この2つはどのように機能しうるべきなのか、といったことです。
もう一度今までの私の思っていることを要約すると、先進国日本においては、様々な社会問題に対して、理論/理性の力の方がより妥当な解決を得られるとして、歴史的・実践的に支配的な立場をとってきたということです。しかし、科学万能主義の時代はもう瓦解していると感じる。あれほど説得的に行動していたアメリカでさえも、イラク戦争・サブプライムローン問題を経験して、私にはあらら?とどーーしても感じざるを得ないわけです。
何かどこかで、理論の世界に、いわば「先天的」に欠陥があったのが動因なのではないかと。日本は外交を始めとしてアメリカのカルチャーなり政治のシステムなりといったものに少なからず影響されているわけですから、仮にいまいったような欠陥があったのだとすれば、影響される日本における理論の世界も妥当ではあり得ないというのは当然導き出される結論です。日本がアメリカ以上により妥当な理論の使い方を編み出し運用している・できているというのなら例外ですが。

4a、 では、便宜上、ものの考え方を、ざっくばらんに「感情・理論」に二分したとして、どうすればもっと社会問題に対して妥当な道を発見できるのか。
「感情」の功罪面に検討を加えたいと思います。

(続く)

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私にとっては、新しい試みです。

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誕生日:
1989/03/19
職業:
学生
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読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


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