発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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こんにちは、mistyです! やっぱり背景が合わない気がするので颯爽変えたいと思っています。笑
久しぶりですね、「思想・哲学」のテーマで引き続き投稿できます(*^。^*)
前回の自由論は、はっきり言ってあぁいうテーマの文章を書くのに慣れていないので、大変読みにくいと思います。
ちょっと簡単に整理しておくと、以下のような感じになります。
<自由A>・・・(感覚的観点) 選択肢が豊富なことからくる圧倒的な解放感
・・・(論理的観点) 選択肢が、より制限的ではないこと→「他のものであり得ること」の可能性がより広い→自由的
・しかし、選択肢を与えられているという時点では、すでに束縛されている
・束縛はされているものの、その中でより自由度が高いかどうかが重要
(3)の論理的考察 中段は、だいたいこういう整理になります。
しかし、このようなあいまいなものを、はたして憲法などの諸理念として定立してよいかどうかは、わりとあやしい事にはなると思います。
多様性の問題も含んでいると思われるのですが、このへんの議論に関してはあまり詳しくないので、せめて勉強してから考えたいと思います。
@事実的な事実
どうでもいいのですが、「A的なA」という表現は、特に現象学や分析哲学に多く見受けられる気がします。
事実とは、いったいなんだのであろうか?
私は、事実とはあくまで擬制されたものであると、少々ニヒルな見地から考える。
事実とは、常に擬制された構築物である、というのである。
歴史は常に作られた産物であるというのは、よくよく言われる事柄であるが、まずはそのような先入観を排して根本から考えてみたい。
ちなみに、「擬制」というのは、「作る」というニュアンスにプラスアルファが付いたものである。それが真実でないとは知りつつも、別の形を装わせる、といったような意味合いである。
例えば、裁判所は紛争の処理に当たって、まず事案の検討から入る。そしてそのあと、法律を構成する事実を取捨選択し、事実関係→法律関係 へと、次元を移行させる。
この処理は慣習的に行われているものである。がしかし、よくよく考えてみると、生の事実関係から法的判断を下すために取捨選択を行っているということは、その生の事実が事実として確定していなければ、処理の正統性・妥当性を主張しえないはずである。
しかし、このことは法社会学などの見地から考察されているにとどまる。法学の全体的なテーマとして扱われることは、意外に少ない。
AとBという人がいるとして、この2人が喧嘩している時、Aから見たら、事実はAの主観そのものである。例えば、Bがある事実を隠してそれをAが知らないとしても、その事実はAから見た事実の中には含まれず、Aの思っていること・感じていることが、そのままAとしての事実になる。
反対に、Bとしての事実もそうである。
とすると、この二人の存在の時点で、すでに事実は異なることになる。事実とは、こんなに揺らぐものであろうか? それは非常に疑わしい。
この時、第三者の視点は、かなり有用に働くことが往々にしてある。Cという人が2人の喧嘩を冷静に見たとき、そこにはAとしての事実とも、Bとしての事実とも、両者とも異なる事実Cが誕生することになる。そしてその事実Cは、なるたけ誰が見てもそうなる可能性の高い、要するに客観性を有する事実である。
そしてこの事実Cこそは、擬制された事実に他ならない。
2人のケンカは、Cが介入するよりはるか以前に起こっているのである。Cは、いわば事後的にそのケンカという事態を眺めたにすぎない。
Cが介入する時点で、すでに事態ははるか遠くにいってしまっている。その遠くに行っている事態こそは、けっこう真実らしい事実であろう。
しかし、そこには入手不可能性がつきまとう。私たちが行動するためには、事態を頭であれ感覚であれ一度読みとらなければならない。直接入手することは性質的に不可能である。その時に、真実らしい事実はするっと私たちの内に入ってくればよいのだが。
ともあれ、Cは事実を正確に把握しようとするだろう。
Aの主観と、Bの主観が著しく異なっている点(争点)につていは、どうすればよいのか?
最も妥当と思われるのは、AにもBにも適合的な事実を作りだすことだが、それはやはり「新たな」事実を擬制してしまうことに他ならないのではないか?
Aとしての事実は、Aにとってはまったくの真実であるし、反対にBとしての事実は、Bにとってまったくの事実である。
これに適合的な解を与えようとする時点で、やはり素朴性からは一定程度離れることが想像に難くないのである。
もっともいってしまうと、最適な解を与えることは、もしかしたら本当に当たっているかもしれないし、しかし違うかもしれない。その確かさを窮極的に判定するすべは実はないのであり、すると、新事実を構成することは、やはり常に擬制する契機を含んでいるとここでは言わざるを得ない。
ちなみに、Cの立場は裁判所のスタンスそのものである。
裁判所は、紛争事実がその裁断にかけられると、一定の期間のもとに法的判断を与えなければならない。モタモタしている暇は、実際的な理由からあまりないのである。限られた裁判所に毎日多くの事案が降ってくる司法性の下では、逆に時間を制限して審理させる方が、司法行為にインセンティヴを与えることにも資することにつながるからである。
そして裁判所は、その時もっとも確からしい事実と、判断枠組みをもって、判決を下す。
下された判決には、名前(形式)と法的効力(実質)が与えられる。
裁判例は隠匿されることなく、国民のだれもが参照できるように、公示されている。その時に、各紛争は上の形式と実質を、いちおう与えられることになる。それを使って、便宜的に私たちは生活を送っている。
この裁判所の行為は、やはり厳密には真実の行為ではない。しかし、擬制された行為である。もっとも確からしいと思われる事実を、真実として「扱う」のである。こういう性質がある。
私たちは、限られた時間の下で生きていくほかない。そのうえで、ある時点でケリをつけて、正しいことは証明されてはいないものの、もっとも確からしいことくらいは証明・考察することができるので、それをもって「確からしい事実」→「真実」と擬制していくほかないのである。それは、効率的にも良いことだし、それをやっていくほかに私たちの仕事はない。
たとえば考古学のような仕事は、これらの、どんどん擬制しては流していく「現在」に対して、ストップをかけられるような特別の存在者である。 過去に「真実らしい」と思われた事実の、あやしい所をほじくりかえして、考察によってどうやら「あまり確からしくない」ことに移行させる。そして、「こっちのほうがより確からしい」事実を再提示する。それをわれわれは吟味して、また新たな事実を過去に当てはめていくのである。
したがって、事実はいつも事実的な事実であり、真実ではない。擬制された事実をもとにして私たちは日常を送っている。
この点を意識し、擬制された事実は、覆る可能性があることをわずかに希望していくことが、私たちの不断の努力によってなされてもよいと思うのである。
misty @
おはようございます、mistyです。
はやくも(?)、前回の続きです。
8人が完全で2人が不完全(その程度は、0割という相当なもの) /全員が不完全(その程度は、8割という限りなく10割に近いもの)
・・・どちらがいいか?
ということですが。
ここで、またある一つの事柄を定立してから話を進めたいと思います。
d: 「人は、なるべく「完全」を手に入れたいと欲する(ものである)」
これはつまり、0.3よりも0.5、0.7よりも1、1よりも3を選ぶ、といった感じです。このd条件を前提として、さらに
b' 8人が完全で2人が不完全(その程度は、0割という相当なもの) /c' 全員が不完全(その程度は、8割という限りなく10割に近いもの) と記号を置きます。
以下。
b' どこかに、完全状態を満たした人と、そうでない人との線引きをするものです。
その、線引きのやり方が、ここでは大きな問題となってきます。
(i) ’理にかなっていること’を重視する社会の場合
このとき、線引きのやり方は慎重でなければなりません。 8人と2人を区別する方法が、できる限り理にかなっていなければ、「不満」が、遅かれ早かれ出現します。
前回記事でみたような、ジャンケンはどうか?
ジャンケンは、ある一つのルールです。 何に対するルールかというと、物事の勝ち負けです。
じゃんけんで負けたからといって、「そんなことはない!」と、現前の事実を否定することはできません。
いわば、強制的な方法です(が故に、決まりやすい、その意味で簡素な方法であると言えるでしょう)。勝ちと負けをはっきり決める。
決まった後で、不平不満はなかなか言いにくいシステム、ともいえます。
ということは、これは、ジャンケンは、それをする前が大事となってきます。つまり、ジャンケンで本当に決めてよいのか?という問い。
りんごの例でいえば、これはジャンケンで決めて良い事柄の範囲内とも思えます。
しかし、例えば、国家からの社会保障であればどうか?(月一で、国家保障手当として1万円がもらえるか否か、とか) 参政権の付与であればどうか? 地球環境に対する取り組みを決定する場では?
このように、人にとっての、重要度の度合いによって、ジャンケンの方法は、疑わしくなったりそうでなかったりします。 つまり、重要度が低いほどジャンケンのような強制的な方法でもいいや、とする一方で、重要度が高いほど、ジャンケンのような粗雑な方法ではいけない、となるような意識システムが働きそうです。
理にかなっているかどうかを重視する社会では、いわば当然とも言えるかもしれない。
さて、いずれにせよ、ジャンケンは、このとき多数決の原理と結びつくものでありました。
勝ったものが多く、そしてそのものの完全を獲得できる、負けた者は、少なく、不完全を入手する。
何かを「多いもの」と「少ないもの」と分けるときは、それが理にかなっているか/合理的であるか が、強く問われると言えます。
逆にいえば、それが理にかなっていると言えるほど、多数決の原理を当てはめた線引きの仕方は、正しく、したがってそれに従わなければならない、ということになります。
選挙、というより投票を例にとって、かなり抽象的に、話の引き合いに出します。
りんごの場合と同じです。
投票権が8つあって、人は10人、とします。
ちなみに投票は、今の日本の社会体制では、1人1票が大原則ですから、上の例はすでに「不完全」になっているということができます(しかし現状を見れば、毎回の国会選挙などでは議員不定数問題が起こっているように、この大原則とは必ずしも一致していませんよね。)。
このもともとが不完全な状況を、分配して、なんとかマシにしようとする中で、完全/不完全 の線引きをハッキリ決める。
歴史的には、代表的なものとして、年齢をその線引きに使うものが多かったですね。現行法でもそのような態度が、タテマエとしてはとられています(投票権は、成人以上!)
今もです。 「青少年には、政治を判断する能力が成人に比べて欠けている」という話をもってくるわけです。
これを、仕方ない=理にかなっていること、だと、構成員のみんなが認めれば(「みんな」が、という条件は、民主主義の要請に基づくものです、後述。)、OKなわけです。
A、B、C、D、E、F、G、H、I、Jの十人のうち、BとFが非・成人であれば、
残りの8人に投票権を付与し、2人には与えない。 これで、OK(理にかなっている/正しい/合理的である)、となるわけです。
この投票システムではさらに、民主主義の要請が働きます。 上の、投票権は成人以上のルールに、誰か1人でも不満を抱いている者があれば、それは、その人からみると合理的ではないという状況になるわけです。
e.:(民主主義の根幹) → 人一人の権利や能力というものは、基本的に同じである。そして諸々の決定の場では、ゆえに、なるべく構成員全員の意見や主張に従う必要がある。
eが崩れている、または存在しない条件下ではどうか。
例えば、身分制。 フランス中世の、アンシャンレジューム等。
アンシャンレジューム(旧体制)下では、第一身分/第二身分/第三身分 と、人が3つに実質的に分かれていたとされます。 つまり、第一身分と第三身分とでは、権利や能力の量と質が異なるわけです。
第一身分の人の能力を3、第二身分を2、第三身分を1、とします。
先ほどの例ですが、第一身分をA、第二身分をB・C、第三身分をD~Jの5人とします。
ランダムに、配分します。
例えば、8を、2・2・1・1・1・1に分ける。それを誰かに与える。
A 0 B 2 C 1 D 0 E 1 F 2 G 0 H 1 I 0 J 1
この場合、完全状態にあるのは、B、E、H、Jの4者/不完全状態にあるのはA、C、D、G、Iの5者/超過にあるのはFの1者となります。
3・2・1・1・1・1・1に分けてランダムに配置すると、
A 3 B 0 C 1 D 1 E 1 F 0 G 2 H 0 I 1 J 1
この場合、完全状態にあるのはA、D、E、I、Jの5者/不完全状態にあるのはB、C、F、Hの4者/超過にあるのはGの1者になります。
いずれにしても、ジャンケンの時の8:2にはならず。つまり、決まり方はごちゃごちゃになります。
重要なのは、繰り返し述べますが、決定の仕方が理にかなっているのかどうかです。
現代においては、参政権の配置の時に、年齢を軸としたある種の差別(区別)をすることは、ある程度合理的だ、という風になっています。
しかし、内容を「参政権」から「平穏の中の生存権」、とかに置き換えたとしましょう。話は違ってくる筈です。
つまり、平穏の中に生きる権利を、年齢で区別しようとするのは、正しくない、とするのが現代社会の根本にあるはずです。 子供手当て、社会保障、育児制度、介護、などなどの諸々の制度がそれらを物語っています(これらについては、詳細を省きます)。
b'+dの条件に於いては、必ず決定の仕方に敏感でなければならない、という義務的な縛りないしはルールが、働くことになります。
そして、そのルールを度外視したもの、ルールから外れたものは、正しくないとか、間違っているとかいう言葉に置き換えられたり攻撃の矛先を向けられたりして、排除の方向に向かわされるということになります。
c' これについては、少々急ぎますが、みんなが不完全状態に陥っているというのが面白いポイントでもあります。
「みんなで我慢をしよう」「みんな苦しいんだから」
こんな言葉が使われている、古風な日本の社会にあてはまりそうな状況です。
ただし、私的には、かなり現代的な考えにも読み取れます。
それは、(行き渡っているのは不完全という状況ながらも)構成員の全員が同じ結果になっている若しくはさせられている、という点です。
これは、「絶対的平等」(昔の記事を参考)の観念、若しくは相対的平等のそれに通ずるものじゃないでしょうか。
いずれにせよ、平等思想に近いものと言えます。
そして、平等思想を獲得しようとするのが、現代の社会、だといえると思います。
平等思想をおしすすめた結果、全員が不完全に陥ってしまった、と読むこともできるでしょう。
b' よりマシになったのか、なってないのか。
これは論者によって、読み手によって、分かれるところだと思います。
以上、たいへん粗雑な考察でした。
個人的には、全然書いてないc'の方に、より面白みがあると思ってます。
まぁ、共産的な考え方かもしれません。
aの条件と現実世界のそれとが異なっている、ということから出発をはじめました。
いわばaの条件は、つまり、人1人それぞれに1つのものでようやく完全、という考え方は、「理想」なのかもしれません。 近代人が思い描いたような。
わたしたち現代人は、もしかしたら、近代人が思い描いたような図面に従って、あれこれ社会を考えている、つまり方法論を考えるのに傾倒しているのかもしれません。
こんな感じですが。w やはり、あまりうまくはまとまりませんでした。
もと(条件)が不完全だと「考えられている」ものを、どうやって配分するかというテーマでしたからね。これは、僕にとっては圧倒的に難しかったです。
それではっ!
misty @
こんばんは、mistyです!
俯瞰税! なんだこれは笑、不完全性の「謎」ではありません。
「なぞなぞ」です。
ちょっと、変わった話をしようと思います。つまり、自分でも答えが見つかっていない事柄ですw
以下の、命題(条件に近い)を置きます。
命題:「あるひとつの、不完全な供給ないし需要、または存在(状態)がある、とする。」
この条件(命題)の下において、人との関わりを考察したいと思います。
ちなみに不完全とは、’完全’、完全に満たされている、の反対の観念。
そしてもう一つ、前提として、10割=完全(な状態)、とします。
つまり、3割も、7割も、不完全であるということになります。
12割、17割などは超過です。
たとえとして、幾つかのりんごと、10人の人々がいたとします。
上より、
前提条件a :「人1人に対して、りんご一個が供給されているのが、完全な状態であるとする。
人1人に対して0.5個は不完全、1.3個は超過である。」
さて、りんごの数を8個だとします。10人の人々は、りんごの配給をうーんと考えます。
配給方法を、あれこれ考えだします。
大きく、以下の2つの場合を考察することにします。
b:まずは簡単方法 → ’多数決の原理’ を用いる
これは、安易ですが中々強力な武器です。困った時の多数決です。
具体的なシステムとしては、1つはジャンケン。 ジャンケンって、多数決の原理に結びつくことが多いですよね。
ジャンケンをして、8人が勝って、2人が負ける、そのような状況を作出する。
そして、勝った8人にりんんごを支給し、負けた2人にはおあずけ。
すると、1個=十割のりんごをもらった8人は完全状態を満たし、りんごをもらっていない=0個りんごをもらっている2人は不完全状態になった、と置き換えられます。
8人→ 完全 2人→ 不完全
完全の方が多いとはいえ、2人の人が不完全に陥っている、ということを指摘します。
c:ちょっとややこしい方法 →全員に平等に行き渡るようにする
これはつまり、8÷10、を意味します。
ここでもし、命題aで設定した「あるもの」が、もし分離不可であったならば、この割り算は
8÷10=1あまり2、
となり、bでやった方法とあまり変わりがありません。 りんごは切れますw 良かった良かった。
つまり、
8÷10=0.8
実際には、ちょっと面倒くさそうです。
まず、1個を、じゅうぶんのはち、とじゅうぶんのに、のラインで切って分けます(前者を最初の一人に渡します)。
0.8+0.2
次の人も0.8個もらわないといけないのですから、次のりんごを6:4の所で切らないといけないようです。
さて、そのやりとりをざっと足し算の式で示すと、以下のようになる。
0.8+(0.2+0.6)+(0.4+0.4)+(0.6+0.2)+0.8+0.8+(0.2+0.6)+(0.4+0.4)+(0.6+0.2)+0.8=10
りんご五つ目の所で最初に返りますので、8:2と6:4の切り目を何回か(もうここは数えません笑)入れると、うまく行き渡るようです。
さて、しかしこの状況は、0.8=不完全を、10人全員が共有している、とも置き換えられます。
10人→ 不完全
全員が完全ではないのだけれども、その不完全さはかなり完全な状態に近い(8割→10割)ということを指摘しています。
私達の社会では、いろんな「不幸」のシステムが存在します。その数あるシステムのうちでも、上のb/cのどちらかのケースに類似しているものが多いように思えます。
b, cどちらの方法をとるにせよ、「不完全」の状態は消えません。
完璧に消去させるとするなら、最初の前提条件a:「人1人に対して1個支給されるのを完全」を操作することです。
もうちょっと詳しく入ると、つまり、上の話では、1人に対して1個のりんごが与えられるのが”少なくとも不幸せではない”状態であったということが、暗黙の了解にあったということです。
ですからこの暗黙の了解にメスを入れられることができれば、どうにかなるかもしれません。
しかし、暗黙の了解というのは得てして手ごわいものです。やっぱり人々は、隣の人がりんごをちゃんとまるまる1個もらっているのに自分が半分だったり6割だったり7割だったりすると、不満・不平・疑問・怒りの念を感じずにはいられないわけです。
さらにここに、もうひとつ別の、暗黙の了解はあります。
「隣の人が1つもらえるのなら、おれも同じように1つもらえるはずだ」
という意識です。
変な話、隣の人というのが、王様であったり、武士の上の位であったりする人であれば、「王様は2個、自分は1個がアタリマエ」みたいな話になってきそうです。
しかし考察では、「人」の属性を考察には入れませんでしたので、隣がもらえるならおれもという暗黙の了解は大前提としてあります。
8人が完全で2人が不完全(その程度は、0割という相当なもの) /全員が不完全(その程度は、8割という限りなく10割に近いもの)
・・・どちらがいいか?
そんな質問には答えがありませんが、世界はこの2極で案外回っていることも多い気がします。
これを軸に、次回に回したいと思います。
misty @
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