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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   
カテゴリー「思想・哲学」の記事一覧

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ポストモダン時代の文化

 こんぱら! mistyです。

最近、いわゆる”ポストモダン”の概念に関して、肌で(つまり、頭ではない)強く感じ取ったことがあるので、misty的ポストモダンの、特に限定をかけて「文化」の状況を描写/提示 しておきたいと思います。

かなり粗雑ですが、細かい部分はご指摘や批判を受けたい所です。

@(misty的)ポストモダン時代の文化

misty的、と冠を付けたのは、あくまでも筆者にとって「ポストモダン時代の文化の状況は次のように感じられる/考えられる」というくらいの意味です。 (人が100人いれば、100通りの”ポストモダン”概念或は観念ができるのではないでしょうか。)

ポストモダン時代の文化の状況という事ですが、ここではモダニズム的文化と比較させる事にします。

日本の、山(脈)を思い浮かべて下さい。 日本で一番高い山は?と聞かれれば、誰もがこう答えます、”富士山”です、と。 それは少なくとも現在までは客観的かつ確定された、純然たる事実として機能します。

そして、モダンの時代においては、日本中のみんなが、一度は富士山にのぼって、「やっほーい!」とか叫んだりして、富士山の頂上から見える景色を眺めて、それを共有していた訳です。みんな、”富士山と、富士山からの眺望”を、共有していたわけです。老若男女問わず。

しかし、それがポストモダンの時代に移行すると、みんながみんな、富士山に登らなくなった訳です。 ”なんで、みんなして富士山に登る必要があるんだ?”と。
そこで、”全然、近場(例えば地元)の山でいいじゃん”といって、その山を登って、その山を登ったもの同士で、”あー眺めがいいね!!”と、気持ちを共有する訳です。
おそらくその近場の山は、富士山のように登るのに相当の根気と体力がいるわけでもありません。”割と簡単に、その山に登る事が”できます。 そして、その山からの景色も、実際の所富士山からの眺望と比較すると対した事はないのかもしれないのですが、当の本人達がそもそも富士山に登った事もなくましてや興味も特段ある訳ではないので、「その山からの景色を眺めて、少人の人との気持ちの共有を図る」だけで、十分な訳です。

日本を見渡せば、高低様々の山があります。 みんな、富士山の”存在”くらいは知っているのですが、だからといって、”富士山に必ず一度は登らなければ!”という風にはならないのです。近場の山を登山して眺望して、それで充分な訳です。 そうして少人数が集まった山どうしが、ゆるやかにつながり、それが日本の山々と人々という状況になります。

これが、misty的ポストモダン時代の文化の状況です。 例えばアイドルでいえば、日本の近代=モダン時代では、「山口百恵」や「松田聖子」のように、”必ず一度はハマった(=登った)”アイドルがどーんとそびえ立っていた訳です。 誰でも、百恵や聖子を語り、しかも(登山した事に関する)苦労を織り込みながら語っている訳です。

ポストモダンの時代についてはどうか。 モーニング娘。、AKB48、なるほど、一見「どーん」とそびえ立っているように見えます。しかし、モダン時代の文化状況と明らかに異なるのは、”誰しもがモーニング娘。やAKBにハマった(登山した)”わけではないということなのです。
彼女らへハマった=登山したのは、ごく一部、具体的に言えば"アイドルオタク"というごく限られた人間なのです。 間違ってか間違ってか、オタクでない人も一部はハマりました。それは確かです。ですが、何遍も繰り返すように、”みんながみんな登山した”山ではないのです。  だからこそ、彼女らへ登山したファン=オタクは、「この山はすごいよみんなも登りなよ(ハマりなよ)!」と、一層声だかに叫ばなければならないのです。 その呼び声はみんなに届くのか、否。

そうです、モーニング娘。やAKB48は、”近場の山の一つ”に過ぎないのです。それは、決して百恵や聖子のような、富士山級の山足り得ないのです。

しかも、モーニング娘。やAKB48といった山々は、”案外簡単に”登る事ができるのです。同じ事を別の角度から言えば、いったんモーニング娘。の山を登って、また降りてAKB48の山に登る事も、めちゃくちゃ簡単な訳です。 そうやって、ゆるやかに、個々の小さな山脈はつながっているのです。モダン時代の山なら、阿蘇山と富士山みたいな感じで、ある程度切り替えるのに(百恵ファンをやめて聖子ファンになる)難しさを要したのですが。

ここにおいて、misty的ポストモダンの文化状況とは、「1個々の小さな山がたくさん乱立/浮遊しながら、2なおかつそれらは相互に緩やかに繋がって、全体という錯覚を引き起こしている」というものです。
僕も、1ヶ月前までならば、本気で”AKB48は世界を(一瞬でも)支配するかもしれん”と思っていたかもしれません。 今、まったく思いません。 はい。
せいぜい、AKBオタクと一部の一般大衆のみが、このAKB48という山に登って(ハマって)、限られた内輪で気持ちを共有するのだろうな、と。

ポストモダン時代における文化とは、そんな感じなのではないでしょうか。もはや、富士山は、文字通りの富士山足り得なくなっている、富士山ですら一つの”大きな山の一つ(エヴェレストやK2が他にもあるよ!)”に過ぎなくなっている、それが現代人たる我々の、普通の感覚ではないでしょうか。
もちろん、富士山自体への、ノスタルジックな”日本国を象徴する山”という側面を軽視してはなりません。 しかし、富士山を今後も”富士山”たらしめようとするには、それなりの苦労が必要かもしれない、と20代の筆者は考えました。

以上

mitsy @

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観察

 こんぱら! mistyです。

簡単なお話を。

@観察

もう現代知識界においてはほとんど一般教養のレヴェルにまで達したことであるが、「観察」という行為を深く考えてみると非常に面白い。

(近代/現代)量子力学が一つの重要な結論に達し、それは全ての学問・非学問分野に渡って、多大なるインパクトを与えた。そのインパクトの一つが、「観察」という行為/態度がどれほど不可解なものであるかということが科学的に説明されたということだ。

話はとても簡単である。私たちがごくごく普通の、日常的な観察を行う時。例えば誰でもやったであろう、小学生のときのチューリップの自然観察。 そんな日常的観察を行っているということが、実はもしかしたらその対象となっている日常現象に大きく影響を及ぼしているかもしれないということだ!
普通、小学生がチューリップの自然観察を行うとき、じーっと見つめてチューリップの花びらのスケッチを行っているとき、私たち人間はチューリップの花びらの様子が観察行為そのものによって変化するとは、予想もしない。それが、大前提である。水やりを忘れてしまいがちだったり丁寧に腐葉土の管理を怠ったりすれば、それは当然にチューリップの生育に影響を及ぼすことは自明のことであろう。ただまじまじとチューリップの花びらを眺めるだけでチューリップが枯れてしまったら、それは大事である(『魔女』『怪物』など、『一般人』とは似ても似つかない特殊な眼力や魔力を持つ例外的存在しかなしえない)。

しかし、観察する対象が、例えば人間であったとしたらどうだろうか。「人間観察」を行うとき、一般的大衆としての私たちは、それなりに困惑するのではないか。
例えば筆者は、個人的に、あぁこの人の日常生活をちょっとでいいから観察してみたいなぁ・・と思うことがたまにある。筆者は、家事(洗濯・料理・掃除)が比較的苦手な方なので、例えばいつも部屋をきれいにしている友人や毎日オシャレな格好をしてくる人の、<家>の中での彼らの立ち振る舞いを、ぜひとも観察してみたいのである。

ただし。 例えば筆者が、観察したいと思う人を1日中ずーっとまとわりついていたらどうなるか。
答えはおそらく、「相手はぐったり疲れる」であろう。
もっと突き詰めて言うと、筆者のまじまじとした目線を受けることで、何らかの影響を及ぼし、「その人が普段通り行っている生活行為」とはちょっとズレてしまうのではないか。

部屋のきれいなAさんが掃除をしていて、それを筆者がまじまじと眺める(話しかけたり、メモをとったりなどは全くしない。目線を送る=自然観察)。すると、Aさんはひょっとして、いつもなら間違える筈のない所で掃除機のコードを絡ませてしまったり、ボタンを押し間違えたりと、細々としたミスを提示するのではなかろうか。
観察者としての筆者は、あくまで「いつも通りのAさんの家の中での部屋の片付け方」を見たいだけなのである。Aさんは、「部屋の掃除はだいたい1日10分程度かなー すぐ終わるよ片付けなんて!」というが、観察者が関与したときのAさんの掃除が1時間もかかってしまっていたとしたら。

それはやはり、<観察>という行為が他者に何らかの影響を及ぼしているとしか、言いようがないのである。

どうしても「いつも通りのAさんの部屋の片付け」を確認したければ、最も成功するのは「こっそりとAさんの家に監視カメラをつける」ことであろう。そうすれば、Aさんの<意識>からは「誰か(観察者)から見られている・・・」という心理は生まれ得ず、したがって観察者は満足して目的を達成できることになる。
「監視カメラがあるかも」と思わせては、絶対にならない。監視カメラがあると意識した瞬間から、行為者はその目線を気にせずにはいられなくなり、普段通りの生活を送ることはできない。

最初に例をあげたチューリップ(植物)に関連させると、一般的感覚では私たち人間の<観察>が植物であるチューリップの生育等に影響するとは到底考えられない。しかし、観察対象を植物ではなく人間にした瞬間、変な違和感が生ずるのである。それはおそらく、「心意識」であろう。
ここでの植物/人間 の違いは、「心意識がないかあるか」である。 植物には心がないと考えられているから(少なくとも今日までの科学的世界においては)、私たち一般人は安心して(?)「植物観察」を行うことができる。
しかし、人間には<心>なるものが皆あると考えられているので、「人間観察」を行う場合には、何かしらの相互影響を観念しなければならないのである。

観察者(人間) → 対象物(植物)
観察者(人間) ⇔ 対象物(人間)

こんな感じである。純粋に、人間を観察(カメラでもいいし、渋谷に出てルンペンのふりをして歩行者を1日中眺めるでもいいし)しようとする時には、観察者が対象物に与える影響を考えなければならない。対象物(人間)は、観察者(人間)の目線を気にせずにはいられないのである。気にせずにはいられない結果、行動にも多少の影響が出る。よって、対象物(人間)の「純粋」な行動/態度を、観察者(人間)は的確に捉えることは少なくともできないのである。

以上

misty @

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動いてやまない機械

 こんぱら! mistyです。

前回の投稿は、3月の読書記録だけだったので、本当の新年度一発目の記事は今回ということにします!

まぁ、あまり中身はないと思われるのですが・・・苦笑 ブログって難しいな。(><)

@動いてやまない機械

ドゥルーズ=ガタリ著の「アンチ・オイディプス」を読んでいる。
(ちなみにドゥルーズ単独著作の「差異と反復」も、あと一章と結論部分だけ!)

「アンチ・オイディプス」を読んでいてすぐに分かることなのだが、この書物には実に「○○機械」という表現が多い!

欲望する諸機械、源泉機械、器官機械、アルプス諸機械、独身機械、線形機械、原始土地機械、資本主義機械・・・。
ほとんどの単語に機械、machine of〜を付けているぐらいである。
ではドゥルーズ=ガタリは「アンチ・オイディプス」(及びその続刊の「千のプラトー」)を構想するにあたって、いわゆる機械論を骨子にしていたのかというと、そんな説明はどこにもされていないので、おそらくこれは短絡的すぎる見方なのであろう。

しかし、私自身は、このありとあらゆるものを「機械」と(いったんは)見なす機械論が、割と好きなのである。機械論をしっかり踏まえて物事を考察したことはないが。

私の中での「機械」のイメージは、幾つかの歯車が複雑に絡み合って、絶え間なく動く第時計の裏のようなモノだ。 

人間を一種の機械と見なす「人間機械論」にも様々のものがあるが、例えば本稿で私は、「絶え間なく動いたり、突然動きを止めたりする」点を強調してその一つを描写してみたい。

機械は、スイッチを起動させている限り、絶え間なく動く。時には、故障して暴走することすらある。暴走しているときであっても、「動いている」ことに変わりはない。
基本的には、スイッチを切ると、動きを止めてくれるようになっている。

さて、一方人間も、ある意味絶え間なく動く存在である。人=休むか動くかしている存在 とでも定義したくなるほどだ。
体を動かしていないと落ち着かない、という人がいる。これはそのことの典型例だと考えられる。このときの「体」というのはおもに「身体」のことであるが、それが「頭脳」の場合であっても話は変わらない。

最近の学知においては、<思考>の源泉はー心ではなくー、頭脳の働きによることが実証されている。
ところで、思考とは絶え間なく続くものである。
自由とはいったい何であるかの、哲学的な空想に耽っているとする。突然、お腹がすいたなぁと思う。また思考は自由の意義に戻る。すると、明日の時間割のことが気になってくる。そういえば、昨日連絡がつかなくなった母親はどうしているだろう・・・

思考はこのように、それぞれにおいて一貫性を持たず、しかしそれらは連続的である。止まることがなかなかない。

そして、頭「脳」も身体の一部であることに違いはないのであるから、やはり人間はその限りにおいて絶え間なく動く存在なのである。もちろん、睡眠といった休憩を必要とする。
この点において、人間と機械は似通った性質を持っていることが言える。機械もまた、その限りにおいて絶え間なく動く存在なのであるから。そして、スイッチをいれっぱなしにしておくと、エネルギー不足になったりパンクしたりする。

ところで、身体を必死に動かしている間、または頭を懸命に使っている間、私たちは、得も知れぬ快感を感ずることがある。世界にとけ込むかのような、世界と自分が一体になったかのような、そんな心地よい気分だ。
一生懸命絶え間なく動いていると、理性とは関係なしに感性がそうした一種の快楽を受け取ることがある。これも、人=絶え間なく動く存在 からくることの、何かしらの作用であるのだろうか。

misty @

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自己同一性(アイデンティティ)

 こんぱら・・・

今日のちょうどお昼に、同タイトルで長めの記事を書いていたのに、アクセスエラーが重なってデータ消えたんですよね・・・

もう自分的には一応解決した考察なので、原型だけ留めておきます。

@自己同一性(アイデンティティ)

今日の社会では、「自己同一性(アイデンティティ)の確立が大切だ!」とよく謳われている
↓ それではそもそも

なぜ、自己同一性の重要性が説かれるのか?
↓思うに

直観としては、社会的人間はむしろ複数性=非同一性 を有するものである
だからこそ、<同一性>が欲望される、という事態になっているのであろう

↓(ここから簡単な図を使って人間の同一性/非同一性をめぐる議論を説明)

自己同一性は、とりもなおさずまずは<社会>の側の方が、私たち<個人>にそれを求める
自己同一性とは、<社会>が作り出した/産み出した 装置の一つに他ならない
理由としては ・管理/処理のしやすさ(仕事面においても、プライベートにおいても)

自己同一性を与えることによって、使いやすい/従順な人間を作り上げることにつながる

↓しかしそれ以上に

私たち<個人>が自己同一性を欲望することの側面の方が大きい

↓では

なぜ私たち個人は自己同一性を求めるのか

↓複数性を有する人間と比較すると

人生の拠り所を複数持つ人間は、しかしやはりどこか寂しい

結局は、人間は、0でも2でも3でもなく、1つの拠り所/原点/帰属先 を本質的に欲望するのである

故郷が1つであることの安心さ  自分の母親の胎内(それは1つの場所である)にいたことへの懐古

↓したがって
「自己同一性の確立が大切であると叫ばれるのは、第一義的には<社会>の要請でもあるのだが、第二義的には<個人>が1を欲望する結果が反射される故でもある」

との暫定的結論

↓それではなぜ
個人としての人間が1なるものを欲望するのか、については本稿では解答しえず

以上

ああーーデータが消えてなかったらなぁ・・・

misty @



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自己性、他者性

 こんにちは!

@自己性と他者性

世界を自己と他者の二つに分けるやり方は便宜的で広範に用いられているが、それと並行した形で自己性と他者性という言葉(概念)に分けて考える区別もなお有効である。

というのは、私という存在は、何も自己性からのみなりたっているわけではない。
たしかに、デカルト的主体を考察するときには、<私>において「自己性」は最大限の主張をなす。
「コギト」、すなわち疑いようのない<私>という存在の証明に成功した暁には、他者といった存在は非存在、もしくは大変に疑わしいものとして考えられているからだ。
しかし、私には「自己」とはおよそ考えられない要素や部分、概念が含まれているのもまた事実である。
例えば、この身体、この体は通常<私>の範囲に含まれているものと考えられている。というより、私たちの認識は己の身体を隷属化させることによって日常を成り立たせている。
胃や腸は、普段は意識の中に姿を現さない。それが不調のときに陥ったときに、すぐさまその存在を主張し始める厄介なものである。ビールを飲み過ぎて焼けた胃の不全は、<私>にはどうするlこともできない。もちろん、胃薬を飲むなどの解決法はあるにはあるが、それも薬は効いてくれるはずだという願いのもとに行われる動作である。
基本的には胃はわたしたちの意志を無視する。胃の調子がおさまるかどうかは、まったくもって随意の埒外なのである。こんなものが果たして<私>といえようか?
明確に否定することもできないが、肯定することはできない。ということは、<私>には自己性のみならない、何かそれと区別されるべき何かがあることになる。

以上の理由から、単に私=自己性、他者(他人)=他者性と決めてかかるよりも、もっと細かいところで考察の単位を「自己性」と「他者性」とを挙げて考えることも、また有効でもあるかもしれないという帰結に辿り着く。

さて、例の話でもクロスしてしまったが、とりあえずこの自己性とは何なのか、というところからはじめなければならない。
端的にいってしまえば、自己性とは、①私たちの生活の中で②最も近い存在でかつ同時に③最も遠い存在である、この条件を満たす概念である。これは説明しづらい。感覚的にいうと、「これ!」と叫びたくなるものその対象が、本校の考察するところである「自己性」の正体である。
この<私>と最も行動をともにする存在が、私である。<私>について親よりも思考をめぐらせ、<私の身体>をこなよく労るところの存在である。例えばAさんならその「Aさん自身」が自己性と等値であるということも言えそうなのだが、さきほども述べたように私たちという存在は自己性からのみなりたっているわけではないのでそうではない。

他者性の定義から入った方がはやいのかもしれない。他者性とは、強いていうなら「<私>の統治(それは自己統治も含む)の範囲外にあるもの/概念」である。これまた消去法的な定義で申し訳ない。 ちゃんと言い換えると、1<私>と同じようなシステムを有すると「推測」させながら、2しかし<私>の手には負えない存在である。隣のうちの山田さんでよい。隣のうちの山田さんは確かに<私>と同じ人間であり、同じ町内に住む住人であり、同じ新聞を取っている人だ、と言えるが、しかしそれはすぐさま「確実にはそうだ!」とは言えないはずだ。もしかしたら山田さんは嘘をついているかもしれないし、同じ新聞を取っているのも、たまたまその新聞を彼女が取っているのを目にしただけのことかもしれない。
そして、山田さんは随伴性の外側にある。私がいくら心のうちで山田さんを操ろうが、現実の山田さんは私の意志とは無関係のところにー後述するが、この無関係性は揺らぐものとなるー位置するものだ。<私>が手首をケガしたところで、山田さんが同じように手首をケガすることはない(ここでも同じように、時として両者の挙動が一致することはある。シンクロと呼ばれる現象がそれである。シンクロ現象については、いくつかの類型化された原因が考えられる)。


安易な二分法によって物事を考えるのなら、世界はとりあえず自己性と他者性の二つを基礎としている、と仮定することができる。随伴性、不随伴性。意志の内、外。確実と、推測。同一、差異。いくつかの要素が、ふたたび二項対立として表れる。

本稿での基本的な視座は、<私>とは端的にこの自己性と他者性の混ざり合った存在であるというものである。どちらか一方、ということにはならない。<私>が、自己性の塊として突出することもあれば、他者性の様相を帯びるときもある。ケースバイケースである。深く突き詰めれば、こういう場合には自己性が強く、こういう場合には他者性が強く、と分析することもできるかもしれないが、本稿ではその詳細に立ち入らない。


(執筆を、ここで断念しました↓)

misty @ 

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事実的な事実


こんにちは、mistyです! やっぱり背景が合わない気がするので颯爽変えたいと思っています。笑
久しぶりですね、「思想・哲学」のテーマで引き続き投稿できます(*^。^*)

前回の自由論は、はっきり言ってあぁいうテーマの文章を書くのに慣れていないので、大変読みにくいと思います。

ちょっと簡単に整理しておくと、以下のような感じになります。

<自由A>・・・(感覚的観点) 選択肢が豊富なことからくる圧倒的な解放感
       ・・・(論理的観点) 選択肢が、より制限的ではないこと→「他のものであり得ること」の可能性がより広い→自由的

・しかし、選択肢を与えられているという時点では、すでに束縛されている
・束縛はされているものの、その中でより自由度が高いかどうかが重要

(3)の論理的考察 中段は、だいたいこういう整理になります。
しかし、このようなあいまいなものを、はたして憲法などの諸理念として定立してよいかどうかは、わりとあやしい事にはなると思います。
多様性の問題も含んでいると思われるのですが、このへんの議論に関してはあまり詳しくないので、せめて勉強してから考えたいと思います。


@事実的な事実

どうでもいいのですが、「A的なA」という表現は、特に現象学や分析哲学に多く見受けられる気がします。

事実とは、いったいなんだのであろうか?
 私は、事実とはあくまで擬制されたものであると、少々ニヒルな見地から考える。
事実とは、常に擬制された構築物である、というのである。
歴史は常に作られた産物であるというのは、よくよく言われる事柄であるが、まずはそのような先入観を排して根本から考えてみたい。

ちなみに、「擬制」というのは、「作る」というニュアンスにプラスアルファが付いたものである。それが真実でないとは知りつつも、別の形を装わせる、といったような意味合いである。


例えば、裁判所は紛争の処理に当たって、まず事案の検討から入る。そしてそのあと、法律を構成する事実を取捨選択し、事実関係→法律関係 へと、次元を移行させる。
 この処理は慣習的に行われているものである。がしかし、よくよく考えてみると、生の事実関係から法的判断を下すために取捨選択を行っているということは、その生の事実が事実として確定していなければ、処理の正統性・妥当性を主張しえないはずである。
 しかし、このことは法社会学などの見地から考察されているにとどまる。法学の全体的なテーマとして扱われることは、意外に少ない。

AとBという人がいるとして、この2人が喧嘩している時、Aから見たら、事実はAの主観そのものである。例えば、Bがある事実を隠してそれをAが知らないとしても、その事実はAから見た事実の中には含まれず、Aの思っていること・感じていることが、そのままAとしての事実になる。
 反対に、Bとしての事実もそうである。
とすると、この二人の存在の時点で、すでに事実は異なることになる。事実とは、こんなに揺らぐものであろうか? それは非常に疑わしい。

この時、第三者の視点は、かなり有用に働くことが往々にしてある。Cという人が2人の喧嘩を冷静に見たとき、そこにはAとしての事実とも、Bとしての事実とも、両者とも異なる事実Cが誕生することになる。そしてその事実Cは、なるたけ誰が見てもそうなる可能性の高い、要するに客観性を有する事実である。
 そしてこの事実Cこそは、擬制された事実に他ならない。

2人のケンカは、Cが介入するよりはるか以前に起こっているのである。Cは、いわば事後的にそのケンカという事態を眺めたにすぎない。
Cが介入する時点で、すでに事態ははるか遠くにいってしまっている。その遠くに行っている事態こそは、けっこう真実らしい事実であろう。
しかし、そこには入手不可能性がつきまとう。私たちが行動するためには、事態を頭であれ感覚であれ一度読みとらなければならない。直接入手することは性質的に不可能である。その時に、真実らしい事実はするっと私たちの内に入ってくればよいのだが。

ともあれ、Cは事実を正確に把握しようとするだろう。
 Aの主観と、Bの主観が著しく異なっている点(争点)につていは、どうすればよいのか?
最も妥当と思われるのは、AにもBにも適合的な事実を作りだすことだが、それはやはり「新たな」事実を擬制してしまうことに他ならないのではないか?
 Aとしての事実は、Aにとってはまったくの真実であるし、反対にBとしての事実は、Bにとってまったくの事実である。
 これに適合的な解を与えようとする時点で、やはり素朴性からは一定程度離れることが想像に難くないのである。

もっともいってしまうと、最適な解を与えることは、もしかしたら本当に当たっているかもしれないし、しかし違うかもしれない。その確かさを窮極的に判定するすべは実はないのであり、すると、新事実を構成することは、やはり常に擬制する契機を含んでいるとここでは言わざるを得ない。

ちなみに、Cの立場は裁判所のスタンスそのものである。
 裁判所は、紛争事実がその裁断にかけられると、一定の期間のもとに法的判断を与えなければならない。モタモタしている暇は、実際的な理由からあまりないのである。限られた裁判所に毎日多くの事案が降ってくる司法性の下では、逆に時間を制限して審理させる方が、司法行為にインセンティヴを与えることにも資することにつながるからである。
 そして裁判所は、その時もっとも確からしい事実と、判断枠組みをもって、判決を下す。
下された判決には、名前(形式)と法的効力(実質)が与えられる。
 裁判例は隠匿されることなく、国民のだれもが参照できるように、公示されている。その時に、各紛争は上の形式と実質を、いちおう与えられることになる。それを使って、便宜的に私たちは生活を送っている。

この裁判所の行為は、やはり厳密には真実の行為ではない。しかし、擬制された行為である。もっとも確からしいと思われる事実を、真実として「扱う」のである。こういう性質がある。

私たちは、限られた時間の下で生きていくほかない。そのうえで、ある時点でケリをつけて、正しいことは証明されてはいないものの、もっとも確からしいことくらいは証明・考察することができるので、それをもって「確からしい事実」→「真実」と擬制していくほかないのである。それは、効率的にも良いことだし、それをやっていくほかに私たちの仕事はない。

たとえば考古学のような仕事は、これらの、どんどん擬制しては流していく「現在」に対して、ストップをかけられるような特別の存在者である。 過去に「真実らしい」と思われた事実の、あやしい所をほじくりかえして、考察によってどうやら「あまり確からしくない」ことに移行させる。そして、「こっちのほうがより確からしい」事実を再提示する。それをわれわれは吟味して、また新たな事実を過去に当てはめていくのである。
 

したがって、事実はいつも事実的な事実であり、真実ではない。擬制された事実をもとにして私たちは日常を送っている。
 この点を意識し、擬制された事実は、覆る可能性があることをわずかに希望していくことが、私たちの不断の努力によってなされてもよいと思うのである。

misty @



 

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不完全性のなぞなぞ 2 (完)


おはようございます、mistyです。
はやくも(?)、前回の続きです。

8人が完全で2人が不完全(その程度は、0割という相当なもの) /全員が不完全(その程度は、8割という限りなく10割に近いもの)

 ・・・どちらがいいか?

 ということですが。
ここで、またある一つの事柄を定立してから話を進めたいと思います。

d: 「人は、なるべく「完全」を手に入れたいと欲する(ものである)」

 これはつまり、0.3よりも0.5、0.7よりも1、1よりも3を選ぶ、といった感じです。このd条件を前提として、さらに

b' 8人が完全で2人が不完全(その程度は、0割という相当なもの) /c' 全員が不完全(その程度は、8割という限りなく10割に近いもの) と記号を置きます。
以下。
 

b' どこかに、完全状態を満たした人と、そうでない人との線引きをするものです。
その、線引きのやり方が、ここでは大きな問題となってきます。

(i) ’理にかなっていること’を重視する社会の場合

 このとき、線引きのやり方は慎重でなければなりません。 8人と2人を区別する方法が、できる限り理にかなっていなければ、「不満」が、遅かれ早かれ出現します。

 前回記事でみたような、ジャンケンはどうか?
 ジャンケンは、ある一つのルールです。 何に対するルールかというと、物事の勝ち負けです。
じゃんけんで負けたからといって、「そんなことはない!」と、現前の事実を否定することはできません。

いわば、強制的な方法です(が故に、決まりやすい、その意味で簡素な方法であると言えるでしょう)。勝ちと負けをはっきり決める。
 決まった後で、不平不満はなかなか言いにくいシステム、ともいえます。

ということは、これは、ジャンケンは、それをする前が大事となってきます。つまり、ジャンケンで本当に決めてよいのか?という問い。

 りんごの例でいえば、これはジャンケンで決めて良い事柄の範囲内とも思えます。
しかし、例えば、国家からの社会保障であればどうか?(月一で、国家保障手当として1万円がもらえるか否か、とか) 参政権の付与であればどうか? 地球環境に対する取り組みを決定する場では?

 このように、人にとっての、重要度の度合いによって、ジャンケンの方法は、疑わしくなったりそうでなかったりします。 つまり、重要度が低いほどジャンケンのような強制的な方法でもいいや、とする一方で、重要度が高いほど、ジャンケンのような粗雑な方法ではいけない、となるような意識システムが働きそうです。

 理にかなっているかどうかを重視する社会では、いわば当然とも言えるかもしれない。

 さて、いずれにせよ、ジャンケンは、このとき多数決の原理と結びつくものでありました。
勝ったものが多く、そしてそのものの完全を獲得できる、負けた者は、少なく、不完全を入手する。
何かを「多いもの」と「少ないもの」と分けるときは、それが理にかなっているか/合理的であるか が、強く問われると言えます。

 逆にいえば、それが理にかなっていると言えるほど、多数決の原理を当てはめた線引きの仕方は、正しく、したがってそれに従わなければならない、ということになります。

選挙、というより投票を例にとって、かなり抽象的に、話の引き合いに出します。
 りんごの場合と同じです。
 投票権が8つあって、人は10人、とします。

ちなみに投票は、今の日本の社会体制では、1人1票が大原則ですから、上の例はすでに「不完全」になっているということができます(しかし現状を見れば、毎回の国会選挙などでは議員不定数問題が起こっているように、この大原則とは必ずしも一致していませんよね。)。

 このもともとが不完全な状況を、分配して、なんとかマシにしようとする中で、完全/不完全 の線引きをハッキリ決める。

 歴史的には、代表的なものとして、年齢をその線引きに使うものが多かったですね。現行法でもそのような態度が、タテマエとしてはとられています(投票権は、成人以上!
今もです。 「青少年には、政治を判断する能力が成人に比べて欠けている」という話をもってくるわけです。

 これを、仕方ない=理にかなっていること、だと、構成員のみんなが認めれば(「みんな」が、という条件は、民主主義の要請に基づくものです、後述。)、OKなわけです。

A、B、C、D、E、F、G、H、I、Jの十人のうち、BとFが非・成人であれば、
残りの8人に投票権を付与し、2人には与えない。 これで、OK(理にかなっている/正しい/合理的である)、となるわけです。

 この投票システムではさらに、民主主義の要請が働きます。 上の、投票権は成人以上のルールに、誰か1人でも不満を抱いている者があれば、それは、その人からみると合理的ではないという状況になるわけです。

 e.:(民主主義の根幹) → 人一人の権利や能力というものは、基本的に同じである。そして諸々の決定の場では、ゆえに、なるべく構成員全員の意見や主張に従う必要がある。

eが崩れている、または存在しない条件下ではどうか。

例えば、身分制。 フランス中世の、アンシャンレジューム等。
アンシャンレジューム(旧体制)下では、第一身分/第二身分/第三身分 と、人が3つに実質的に分かれていたとされます。 つまり、第一身分と第三身分とでは、権利や能力の量と質が異なるわけです。

 第一身分の人の能力を3、第二身分を2、第三身分を1、とします。

先ほどの例ですが、第一身分をA、第二身分をB・C、第三身分をD~Jの5人とします。
ランダムに、配分します。
 例えば、8を、2・2・1・1・1・1に分ける。それを誰かに与える。
A 0 B 2 C 1 D 0 E 1 F 2 G 0 H 1 I 0 J 1

 この場合、完全状態にあるのは、B、E、H、Jの4者/不完全状態にあるのはA、C、D、G、Iの5者/超過にあるのはFの1者となります。

 3・2・1・1・1・1・1に分けてランダムに配置すると、
A 3 B 0 C 1 D 1 E 1 F 0 G 2 H 0 I 1 J 1

 この場合、完全状態にあるのはA、D、E、I、Jの5者/不完全状態にあるのはB、C、F、Hの4者/超過にあるのはGの1者になります。

いずれにしても、ジャンケンの時の8:2にはならず。つまり、決まり方はごちゃごちゃになります。

 重要なのは、繰り返し述べますが、決定の仕方が理にかなっているのかどうかです。
現代においては、参政権の配置の時に、年齢を軸としたある種の差別(区別)をすることは、ある程度合理的だ、という風になっています。
しかし、内容を「参政権」から「平穏の中の生存権」、とかに置き換えたとしましょう。話は違ってくる筈です。
 つまり、平穏の中に生きる権利を、年齢で区別しようとするのは、正しくない、とするのが現代社会の根本にあるはずです。 子供手当て、社会保障、育児制度、介護、などなどの諸々の制度がそれらを物語っています(これらについては、詳細を省きます)。

 b'+dの条件に於いては、必ず決定の仕方に敏感でなければならない、という義務的な縛りないしはルールが、働くことになります。
 そして、そのルールを度外視したもの、ルールから外れたものは、正しくないとか、間違っているとかいう言葉に置き換えられたり攻撃の矛先を向けられたりして、排除の方向に向かわされるということになります。

c' これについては、少々急ぎますが、みんなが不完全状態に陥っているというのが面白いポイントでもあります。

 「みんなで我慢をしよう」「みんな苦しいんだから」
 こんな言葉が使われている、古風な日本の社会にあてはまりそうな状況です。

ただし、私的には、かなり現代的な考えにも読み取れます。
 それは、(行き渡っているのは不完全という状況ながらも)構成員の全員が同じ結果になっている若しくはさせられている、という点です。
 これは、「絶対的平等」(昔の記事を参考)の観念、若しくは相対的平等のそれに通ずるものじゃないでしょうか。
 いずれにせよ、平等思想に近いものと言えます。
そして、平等思想を獲得しようとするのが、現代の社会、だといえると思います。

 平等思想をおしすすめた結果、全員が不完全に陥ってしまった、と読むこともできるでしょう。
b' よりマシになったのか、なってないのか。
 これは論者によって、読み手によって、分かれるところだと思います。


 以上、たいへん粗雑な考察でした。
個人的には、全然書いてないc'の方に、より面白みがあると思ってます。
まぁ、共産的な考え方かもしれません。

 aの条件と現実世界のそれとが異なっている、ということから出発をはじめました。
いわばaの条件は、つまり、人1人それぞれに1つのものでようやく完全、という考え方は、「理想」なのかもしれません。 近代人が思い描いたような。
 わたしたち現代人は、もしかしたら、近代人が思い描いたような図面に従って、あれこれ社会を考えている、つまり方法論を考えるのに傾倒しているのかもしれません。

こんな感じですが。w やはり、あまりうまくはまとまりませんでした。
 もと(条件)が不完全だと「考えられている」ものを、どうやって配分するかというテーマでしたからね。これは、僕にとっては圧倒的に難しかったです。
それではっ!

 misty @

 

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不完全性のなぞなぞ


こんばんは、mistyです!
俯瞰税! なんだこれは笑、不完全性の「謎」ではありません。

「なぞなぞ」です。
ちょっと、変わった話をしようと思います。つまり、自分でも答えが見つかっていない事柄ですw

以下の、命題(条件に近い)を置きます。

命題:「あるひとつの、不完全な供給ないし需要、または存在(状態)がある、とする。」

 この条件(命題)の下において、人との関わりを考察したいと思います。

ちなみに不完全とは、’完全’、完全に満たされている、の反対の観念。

そしてもう一つ、前提として、10割=完全(な状態)、とします。
つまり、3割も、7割も、不完全であるということになります。
12割、17割などは超過です。

たとえとして、幾つかのりんごと、10人の人々がいたとします。

上より、
前提条件a :「人1人に対して、りんご一個が供給されているのが、完全な状態であるとする。
人1人に対して0.5個は不完全、1.3個は超過である。」

 さて、りんごの数を8個だとします。10人の人々は、りんごの配給をうーんと考えます。
配給方法を、あれこれ考えだします。

大きく、以下の2つの場合を考察することにします。

b:まずは簡単方法 → ’多数決の原理’ を用いる 

 これは、安易ですが中々強力な武器です。困った時の多数決です。

 具体的なシステムとしては、1つはジャンケン。 ジャンケンって、多数決の原理に結びつくことが多いですよね。
 ジャンケンをして、8人が勝って、2人が負ける、そのような状況を作出する。
そして、勝った8人にりんんごを支給し、負けた2人にはおあずけ。

すると、1個=十割のりんごをもらった8人は完全状態を満たし、りんごをもらっていない=0個りんごをもらっている2人は不完全状態になった、と置き換えられます。

8人→ 完全 2人→ 不完全

 完全の方が多いとはいえ、2人の人が不完全に陥っている、ということを指摘します。

c:ちょっとややこしい方法 →全員に平等に行き渡るようにする

これはつまり、8÷10、を意味します。
 ここでもし、命題aで設定した「あるもの」が、もし分離不可であったならば、この割り算は

8÷10=1あまり2、
となり、bでやった方法とあまり変わりがありません。 りんごは切れますw 良かった良かった。

つまり、
8÷10=0.8
 実際には、ちょっと面倒くさそうです。
まず、1個を、じゅうぶんのはち、とじゅうぶんのに、のラインで切って分けます(前者を最初の一人に渡します)。

0.8+0.2

次の人も0.8個もらわないといけないのですから、次のりんごを6:4の所で切らないといけないようです。
さて、そのやりとりをざっと足し算の式で示すと、以下のようになる。

0.8+(0.2+0.6)+(0.4+0.4)+(0.6+0.2)+0.8+0.8+(0.2+0.6)+(0.4+0.4)+(0.6+0.2)+0.8=10
 

りんご五つ目の所で最初に返りますので、8:2と6:4の切り目を何回か(もうここは数えません笑)入れると、うまく行き渡るようです。

 さて、しかしこの状況は、0.8=不完全を、10人全員が共有している、とも置き換えられます。

10人→ 不完全

 全員が完全ではないのだけれども、その不完全さはかなり完全な状態に近い(8割→10割)ということを指摘しています。

 私達の社会では、いろんな「不幸」のシステムが存在します。その数あるシステムのうちでも、上のb/cのどちらかのケースに類似しているものが多いように思えます。

 b, cどちらの方法をとるにせよ、「不完全」の状態は消えません。
完璧に消去させるとするなら、最初の前提条件a:「人1人に対して1個支給されるのを完全」を操作することです。
もうちょっと詳しく入ると、つまり、上の話では、1人に対して1個のりんごが与えられるのが”少なくとも不幸せではない”状態であったということが、暗黙の了解にあったということです。
 ですからこの暗黙の了解にメスを入れられることができれば、どうにかなるかもしれません。

 しかし、暗黙の了解というのは得てして手ごわいものです。やっぱり人々は、隣の人がりんごをちゃんとまるまる1個もらっているのに自分が半分だったり6割だったり7割だったりすると、不満・不平・疑問・怒りの念を感じずにはいられないわけです。

 さらにここに、もうひとつ別の、暗黙の了解はあります。
「隣の人が1つもらえるのなら、おれも同じように1つもらえるはずだ」
という意識です。
 変な話、隣の人というのが、王様であったり、武士の上の位であったりする人であれば、「王様は2個、自分は1個がアタリマエ」みたいな話になってきそうです。

 しかし考察では、「人」の属性を考察には入れませんでしたので、隣がもらえるならおれもという暗黙の了解は大前提としてあります。

 8人が完全で2人が不完全(その程度は、0割という相当なもの) /全員が不完全(その程度は、8割という限りなく10割に近いもの)

 ・・・どちらがいいか?

そんな質問には答えがありませんが、世界はこの2極で案外回っていることも多い気がします。

これを軸に、次回に回したいと思います。

misty @
 

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主体性批判 続き 完 

主体性批判
(2)からの続き

私たちは、自己の言説において、果たしてどれほどその言説が自己のみからのものに由来するのかという事について、どこまで断言することができるだろうか。事態は、むしろ逆なのではないか。

すなわち、20世紀の初頭の言語学や第二次世界大戦後影響力を高めていった言語論的転回という現象が語っているように、私たちの発する言葉は、何らかの文化によって決定されているのではないか(このブログのこの記事でさえもがそうであるということを述べている)。全般にわたってとはいかないまでも、わたしたちはある程度この事柄を認めることから逃れ得ないのではなかろうか。なるほど、一義的にそう解する事にも同様の無理はあるであろう。しかし、規範としての文化を考察したとき、つまり文化が人々の道徳観念やそれらに基づく感情論を規定するものだと捉えるとき、それらは明らかになってくる

(3)日本の場合 ー恥の文化を例にしてー
たとえば、日本には恥の文化(shame culture)が根付いている、とベネディクトは述べる。彼女の定義によれば恥の文化とは、恥辱感を道徳の基本体系の原動力としている文化のことを示す。そしてそれは、罪意識を道徳観の基本体系の原動力とする「罪の文化」と区別をする。
彼女が、日本人は世間を気にするという時、彼女は同時に世間を気にすることこそが最良の徳のひとつであると述べたことをも忘れてはならない。つまり、他人の顔色を伺ったり、世間体を気にしたりだということがらは、現代社会においては過剰されたもののそれとしてはマイナスイメージが付着しているが、ベネディクトはそうではない、むしろプラスに賞賛される文化社会という神話を日本に見出すのである。彼女はもうひとつ、日本人の道徳観念に通ずる重要な行為として、「自重」(彼女はローマ字Jichoでこれを補足説明している)を挙げる。自重は、世間を意識することによって導かれるものである。彼女は、日本人が「世間などなければ自重しなくてもよいのだが」と言う場合のことを、「極端な言い方」「強烈な反応」だとか記述する。 つまり、彼女は外部化された視点に立っているから、世間体や周りを気にすることをーこれが、たとえば「和の文化」とでもいわれるものなのだろうかー徳と感ずるわたしたち日本人のことを奇異に感じているようである。


(3 加えて、規範としての文化を、複数人の人が共有していることを必要とする。なぜなら、個々が抱く文化と全体としてのそれは、やはり妥当する範囲においても違いがあるからである。
(4 ルース・ベネディクト著「菊と刀」(講談社学術文庫、2005)271-2頁。

 そうしてかようの外面を整えようとする規範文化においては、恥辱感といったものが徳目におかれる限りは、わたしたちは内面のせきららな告白など、しようとはしないのである。自己の外面的要素を価値におくこの恥の文化が妥当する範囲においては、「告白はかえって自ら苦労を求める」とベネディクトは述べるように6、自ら進んで内面的告白などそうそうしない。反対に、「罪の文化」では、徹底的な罪意識などを、例えば懺悔といった習慣・制度が示すように、それはむしろ積極的に告白することで自己が感じる煩悶とかいった苦しみを軽減させることがなされるのである。アメリカ人も普通に恥辱にさいなまれることはあるが、日本人がそれにまとわりついているのとは明らかにレヴェルが下がったものとして日常が営まれているらしい。

(5 前掲脚注4 270-7頁。
(6 前掲脚注4 272頁。



(4) (3)のまとめ
3節での話を主体性への話に戻そう。 つまり、自分の内面的な事柄を告白するか・しないか/だまっているか・言葉に還元させるか、といった内容は、恥の文化が妥当する日本社会においては、大きくかかわってくるファクターなのである。自重という言葉がまさにその字義通り示すとおり、恥の文化内においては、自己の主体性よりも、世間への自重のほうにより比重がはたらく。つまり後者の方がよりよく賞賛され、価値付けられ、高められる。ここでは、自己の主体性といったものは自らが、また文化社会が規定する恥の概念のもとに大きく作用される、といえるのである。

(5)主体性を究極の価値たらしめるもの

往々にしてこの主体性というものは、自由の尊重というひとつの理念に裏付けれている。そして、次のことが重要である。そのように裏付けられた主体性は、いったい何に向かってその価値を最大限のものにあげるのだろうか。

実存主義の提唱者として語られるサルトルは、この自由で主体性をもった人間というものは、えてして歴史の発展、ひいては人類の発展を促す方向に働くものとして重要であると説示する。例えば、19世紀末以降での民主主義と自由主義の結合、革命による社会主義(国)の誕生、そして共産主義を、これをある系譜のもとにすなわち発展していくものとしての見方がある。そして、後者の人類の発展といった事柄については、ダーウィニズム・進化論などが関係している。サルからヒトへ、などといった進歩は、いち学問の中だけに見出すのではなく、人類からその先へと未来に向かって彼の発展を考えるものである。

上のような基盤のもとでは、時間というものは一直線に、しかも上向きに向いてあるとも捉えることが可能である。実存主義は、そういった歴史や人類の向上という所に何よりも意義を見出した。窮極の価値は、そのような上向きのところに伸びているという限りにおいて付与されるものであった。主体性をもって、それらの課題・未来に向かっていく、という限りにおいて、主体性は大切な概念であったのである。

(6)実存主義を超えて
しかし、小節(4)でみたとおり、ある一定の文化の範囲では、主体性が別の理由(自由・不自由、歴の発展等から排されるわけではなかった)によって否定・軽視される。また、2度の20世紀における世界大戦を経て、私たちは一層に、自分達の作り上げた思想や行動を反省する必要に迫られた。
つまり、空間的にも、時間的にも、実存主義、「主体性をもつことによって歴史や人類の向上を目指す」、という神話は、まさに文字通り神話としてみる見地が広がらざるをえなくなった。主体性は、場所的にも時代的にも普遍性を失ったのであった。

現代はポストモダンの時期だといわれるが、実存主義が終焉を迎え、構造主義もいったんの休憩を見、今そういったものを乗り越えての、新たなる統一した世界観が、永らく模索されている。
そして戦後日本においては、個人の尊厳というある一つの理念が、それとして標榜されている。それは、行動の主体を個人に還元させる可能性にも契機を与える。個人主義社会といわれて久しいが、現代を生きていくためには、個人個人がよりいっそう強い軸をもつことを余儀なくされた。その中で、主体性もおおきなひとつとして扱われる。

 私たちがはじめにみたように、わたしたちは常に主体性をもって言葉を話しているとは限らない。同様に、常に主体性を持って各行動をするといった器用な人類でもないのだ。それを、ニヒルに捉えるのではなく、一種の事実として受け止め、私たちがなにができるのかをひとつずつ模索していくのも、また時代の要請であろう。文化人類学者レヴィ=ストロースの、「われわれはてさぐりでやっていくしかない」という言葉には、文化人類学の手法としてのそれだけではなく、私たちが生きていく上での、一つの指標として働くことがある、と言えるだろう。


(7 小野功生監修「図解雑学 構造主義」(2004, ナツメ社)14-7頁。
(8 川田順造「レヴィ=ストロースから学んだもの」『現代思想 1月号』(2010, 青山社)51頁。



@おちまい@

ご意見・ご感想お待ちしております♪
misty @
 

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主体性批判


 こんばんみ、mistyです。(#^.^#)

今日ひとつ大学の試験がありまして、たった一つ受けただけで消費してしまいました笑
 あー試験勉強なんてものは、あんまり楽しくないなぁ。。

まぁいいや。笑
本当はまだ試験勉強続けるべきなんですが、そういったちょっとした「逃げ」の気持ちから、「主体性批判」なる記事を載せます。(゜-゜)

@主体性批判

(1) わたしたちは、常に主体性を持って言葉を話してはいない

 最近では、よく「主体性」に関する言説などを改めて日本でよく聞く。特に企業での人材育成の場面などで、それは多い。「ちゃんと主体性を持って行動しよう」などといったスローガンである。

しかし、わたしたちはいつでも主体性をもって行動しているわけではない。
この言い方は、よく批判を受ける。反発心が働く。んなわけない、と。 わたしたちは主体性をもって、常に行動している、と。
主体性とはさしずめ、「自分の(よき)主人であること」、である。なるほど、わたしたちは確かに自分のよき主人となり、自らに責任を持って行動していることもあるだろう。しかしわたしたちは、本稿が明らかにするように、いつでもそのような態度と行動を完全には取れはしないのだ。

 このことは、フランス現代思想などでは、20世紀初頭から激しくいい争われていることでもある。
ちなみに、主体性と歴史の発展というシンボルを掲げて広く社会に活動を呼びかけていた、哲学者サルトルなどが提唱したそれを、実存主義と呼ぶことがある。
 同じく20世紀に活躍したガタリに言わせると、フランス思想に於いては、実存主義は「とっくに終わっている」(注1)ものらしい。

(注1) ジル・ドゥルーズ「差異と反復」(財津 理訳、1992、河出書房新社)訳者あとがき509頁。


(2)言葉に関して

 特に、わたしたちが言葉を使ったり(つまり、しゃべったり文字を書いたり、というコミュニケーションの手段として)する時、このことはよく明らかになる。常に自分の動機や意図に基づいて、言葉を発しているという現象を、わたしたちはどう捉えたらよいのか。その自分の動機や意図は、しかし、他者等の媒介がない限り、どうしてそれが動機や意図となりえようか。このことは、自分というものを、少し突き詰めて考えると、それはたちまち雲隠れしてしまうといった事柄によく似ている(注2)。


(注2) これに関しては、過去記事「伸びる身体・広がる意識」(アドレス:http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/47/http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/48/)や鷲田清一「じぶん・この不思議な存在」(1996, 講談社)、同氏「悲鳴をあげる身体」(1998, PHP研究所)等を参照。

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*苦手なモノ・コト
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