発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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こんぱら! mistyです(*^。^*)
ニクラス・ルーマンの「社会の科学」を、2日前からゆっくりとしたペースで読んでいます。
おもしろすぎ!!
(cf. ニクラス・ルーマン(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 )
ルーマンって手ごわいイメージがあったけど、すごく読者のことを意識して書いてるんだなってことが伝わってきて笑、中々です。
まだ80ppくらいまでしか読み進めてないんですけどね。
今読んでるのか「観察」という章なのですが、これはポスト構造主義がテーマの一つにもしている所。というよりも、近代科学とそれ以降の大問題。
あれです、われわれ人間の立ち位置は、神にも似た、<自己>を<世界>からある程度距離を置いた所から観察して、そういう風にして物事を考察していくのだ!、というイメージです。
(世界の外部) 人間 (( 世界の内部
↑
見えない壁
※⇔ 故に、自分自身のことは、観察できない (<自己>が<自己の外側>に立つというのはパラドックスですよね)
ポスト構造主義(か、もしくはオリジンの構造主義)は、本当に人間は世界の外部に立つことができるの~?ていうか立っているの~?そうだとしてそれは正しいの~?的な視点から批判を始めていたように思われます。 これは私の勘違い・勝手で誤ったイメージかもしれないので、アテにしないで下さい。
ルーマンは、この<世界の外部から世界の内部への観察>という概念を緻密に検討してました。
今読んでいる範囲内の所でいうと、結局、われわれ人間が観察できた!と思って描いたスケッチは、実在の生の現実そのものではなく、その観察者の思い通りに描いたものに過ぎない、という要旨だと思われます…。曖昧ですいません。
そこで、その観察そのものを観察するという現象に光をあててみようじゃないか、という話になってきております。「観察の観察」です。
観察者が、どのようにして<世界>を記述しているか、それをこそ観察(記述)してやろうじゃないか、という感じです。
つまり、「何を」観察しているかが大切なのではなく、「いかにして」観察しているのかが、重要なポイントらしいですよ!
たかだか1/5を読み進めたくらいなので、うん難しい!
今後に期待☆笑
続くかどうかは私のやる気次第です。
それでは~
@ misty
(2)見えるということ
わたしたちは、実は案外見えていないと考えられる。見えてはいないが、自分の現状を高めに飲み込もうとするのだ。結果、大して見えなくても、見えたつもりになっているのではないか。
まず、可視的に見えるかどうか、という議論から入っていこう。
目が見える、ということは、しかし、あんがい漠然としたものである。簡単に目がいいから、とか人並みの視力はあるから、いっても、実はそれほど安易に片付けられる話ではない。
まず、私たちの、視野の限界だ。私たちは、目が見えるといっておきながら、実は背後は全く見えていない。180度はがら空きになってしまう。
顔に目がついているのだから、当たり前ではある。しかし、私たちはこの事実をよく消去しがちである。
背後においては不可視的である。そこを、意識が想像物として補う。目の前の景色との一貫性や、あるいはこうであろうとの推測から、それは作られる。背後の世界は、造られたものである。
ゆえに、それは本当の背後と、同じなのかはっきりしない。もしかしたら一致するかもしれないし、もしかしたら全く違うかもしれない。不意を突かれる、というが、基本的には背後から起こることであるのが多いのである。
つまり、私たちは、世界の半分を不確かなものとして、それに半ば脅かされながら生きている、ということはできよう。我々が見ているのは常に半分の世界である。
さらに、集中という事柄がある。私たちは、見えている180度の世界の中でも、実際に意識的に見る景色は部分的なのである。意識は、集中という事態を発生させるので、どうしても不注意な部分が景色の中にできてしまうのである。
凝視する、という言葉はつまり、見えている世界の中からさらに対象をしぼりとって見るということである。つまり対象外の部分については、注意力散漫となる。
いや、全部を凝視できるのだ、との反論はある。しかし、たとい全ての方向を注意したつもりでも、それはあらゆる部分が少しぼけるといったことにしかならない。対象を絞らない分、不明確となるのである。
(3)see
見えるの英語は、seeである。周知の通り、この言葉は「分かる・発見する」という状態・動作をも示す動詞である。
そもそもseeには、分かるという意味ガあった。見えるということは、その内容が見えるということでもある。
未来が見える、という時、それは未来が可視的に見えるのだということを指すのではなく(もしかしたらそのような意味合いを指す場合もあろうが)、未来の内容が分かっている・把握しているということを中心的に示している。
ここで、見える/見えない の区分は、分かる/分からないに移行することにもなる。
人間の知を無限定にとる立場からすると、「分からない」ことは何もないの鴨知れない。
しかし、次のような事実を考えた場合、どうであろうか。
私たちは、何かを分かろうとし、結果そのことについての知識を得た、とする。
すると同時に、また新しく分からないことが、噴出してくることはないだろうか。例えば、ある新種の原子を発見したとする。
すると今度は、どういう環境の元でその原子は姿を表しやすいのか、化学反応は、性質は、他の原子との関係はどうなのか、何を生成するのか、地球上にどれくらい存在するのか、といった具合に、どんどん新しい問いが生まれてくる。発見者は、次はこうした問いにまた答えていく姿勢を見せるであろう。 つまり1つの問いとその答えに対応することは、それを終わらせると共にまた新しい問い(謎・分からないもの)を出現させるのだ。人は新たな問いに一つ一つ答えていく生き物だし、世界は分からないことでうめつくされているのである。
分かることが、一つ増える度に、分からないことが10増える。我々の歴史とは、そういうものであったはずだ。
とすれば、どれだけ分かっているものを分かっている、と豪語するよりも、分からないことを見つめていくことの方がより真摯な姿勢だと私は思う。
ただ、人間は分かることに安住してしまいがちな存在である。分からないことに対しては、腹を立てるのである。
あるいは、分かったふりをする―。分からないと安心できないから、気を休めるために、自分の周りを予測可能な、つまり分かるものだけで埋めようとする。隙間を作ってはならない。隙間は悲劇であり、あってはならないものである(視界には隙間のない、「強い人間」という虚像が作られる。)。
鷲田が次に述べるように、企業戦略の場においては常に「現在から確定されたものとしての未来」が、並べ立てられるのである。
話題は、筆者が企業の活動にあたる言葉を分析していた所からはじまる。
…あるプロジェクトを立ち上げようと提案する。そのプロジェクトの内容を検討するにあたっては、そもそも利益の見込みがあるかどうか、あらかじめチェックしておかなければならない。なんとかいけそうだということになれば、計画に入る。計画が整えば、それに沿って生産体制に入る。途中で進捗状況をチェックする。支払いは約束手形で受ける。そして儲けが出れば、企業は次の投資に向けてさらに前進する。事業を担当した者にはそのあと当然、昇進が待っている……。
ここでポイントになるいくつかの用語を英語になおしてみる。プロジェクトはプロジェクトであるが、次に利益はプロフィット、見込みはプロスペクトである。計画はプログラム作りと言いかえることができる。生産はプロダクション、約束手形はプロミッソリー・ノート、進捗・前進はプログレス、そして昇進はプロモーション。なんと、「プロ」という接頭辞をつけた言葉のオンパレードである。これらはみな、ギリシャ語やラテン語の動詞に「プロ」という接頭辞(「前に」「先に」「あらかじめ」という意味をもつ)がついてできた言葉である。…(中略)…要するに、すべてが前傾姿勢になっている。あるいは、先取り的になっている。そして、先に設定した目標のほうから現在なすべきことを規定するというかたちになっている。…
(鷲田清一「「待つ」ということ」17-8頁、角川学芸出版、2006)
予見可能のもの中で、なるたけ<現在の方>からのみ、物事の判断をしようとする姿が浮かぶ。
しかし、結局それでは本質を掴んだことにはならない。アキレスと亀の話は、線分の交差点までの一部分までしか見てはいなかったのだ。
(4)信じるということ
信頼社会という言葉がある。信頼社会は崩れている、今の日本は欺瞞に満ちていると、様々な方向から批判されている。
例えば、売買契約においての、当事者の片方の債務不履行について(例えば買主なら、商品を受け取ることの対価として、金銭を支払うこと。)。法律的には、その相手方(売り主)は一定期間付きの催促を請求することができる(条)。
催促は、必要に応じて何回でもできる、とされている。しかし、何回かにも、限度があるであろうことは、冷静さをもっていれば、判別がつくはずである。
当然、催促は法律上も認められた、権利の行使として積極的にすべきである。
しかし、その催促を過剰にやることは、非合理的ではなかろうか。
過剰に催促すると、それはまず1法律上の強迫行為に近いものとなってしまうおそれがある。
それから、2相手方に不必要な焦りを産ませて、心理的負担を加える可能性がある。
また、3潔さの観点からも疑問となる。
しかし現実は、ヤミ金融の取り立てを典型として、過剰催告の例が珍しくない。
この、過剰に相手に「まだなの!?」と催告してしまう行為は、心理的にはどういった状態から来るものなのか。
それは、私は相手を「信頼しきれていない」ことからくる焦燥感や、不安感、疑心暗鬼の現れだと考えている。
決まり文句のように、「あなた、信頼されていないわよ」という言葉は使われるが、実はそれは裏を返せば、「私はあなたを信頼する自信が持てません。」という、―相手の悪さゆえでなく―自己の弱みを表明してしまう言説でもあるのだ。
催告の法律的な制度趣旨(制度の目的)は、相手方に債務の存在を気付かせることで、債務履行の機会を促すことである。そうすることで、私法上の大原則である、取引上の安全の充足に資するからである。
それは、人情的に言えば、思いやりである。反対に、思いやりがなければ相手方の債務履行の機会を与えようなどとはそもそも意図しない。
現状は、こうした思いやりを欠いた催告行為が多くなっているのだと思う。それは、先程述べたように、相手に対する疑心暗鬼の気持ちからなされている。
だから、その不安定な気持ちは、相手をも焦らせてしまい、互いを不信にしてしまう。冷めた契約関係に堕落させてしまい、それ以外の所での心のやり取りといったものは全く無くなる。
ところで、信頼できないということは、幾つかの観点と同視できるものがある。
1つは、不安に思うということであった。
上で見たように、不安に思うという事は、相手の力量や行動や誠心を疑うという事でもあるが、自分をも疑ってしまうことの裏返しであった。
そして1つには、「待てない」ということが挙げられるだろう。
引用で引いた鷲田はその著書「『待つ』ということ」の冒頭で、日本社会は待てない社会になったことを指摘している。
我慢や自制が、効かないのである。
耐久力という言葉があるが、それは、人間においては崩壊しているのが今の現状であるのだろう。
その背景には、人々の相互不信やコミュニケーション不全、物欲主義など様々なものの検討の余地があると思われるが、本稿ではその考察には至らないことにする。
相手を信頼できないことの理由を挙げるのは、幾つでもありそうである。相手を信頼できる理由の方が、挙げることの難しくなった社会であるかもしれない。
一つ、この小節で述べておきたいのは、相手が信頼できないというのは、思ったより手強い事態であるということだ。
相手を待てないのは、とりもなおさず、少なくとも「自分」自身は信頼ができるということでありそうである。
しかし、それは違うと思う。
相手を信頼できないということは、即ち自分自身でさえも信じることができないことを指すのである。
自分を信頼していないからこそ、相手にも同じように、自分とよく似た部分への不信を示すのだ。
いや、自分だけは信頼できるのだ、という主張があるのかもしれないが、それでは、次の引用を見て4節を閉じることにしよう。
精神分析者のエーリッヒ・フロムの、「利己主義者」についての議論である。すなわち…
…利己主義をよりよく理解するには、たとえば子どもをかまいすぎる母親に見られるような、他人にたいする貪欲な関心と比べてみればいい。そういう母親は、意識のうえでは、心から子どもを愛していると思いこんでいるが、じつは、関心の対象にたいして深く抑圧された憎悪を抱いている。彼女が子どもをかまいすぎるのは、子どもを愛しすぎているからではなく、子どもを全然愛することができず、それを償おうとしているのだ。…
(エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳「愛するということ」98頁、紀伊国屋書店、1991)
(続く
(5) 可視化の幾つかの例
)
こんばんは!
さっそく、連載第二弾に映りたいと思います。
まだ草稿が手元にあり、書き途中なので順調にのせられるかどうかは怪しいです!
「見る」ことの意義を考えた記事です。
@見えないことを信じること
(1)「見える」ことの恐怖/権威作用
「見える/見えない」ことを、考えていきたいと思う。
何かしらの方法なりやり方なり考え方なりで見えるもの。それは、果たしてどれくらいあるのだろうか。
「見えないものを信じる力」
いつからか、こんな曖昧な概念が、それでも有効性を持って言われたりする。
私は、これからの時代において、この見えないものを信じる力、というのはますます大切なものになってくる、と考えている。何故だろう。
それは、さっきの一番はじめの問いにもリンクしている。
私たちは、この世界で一体どれくらいのものが見えるのだろうか。
ある意味、人間が歩んできた道とは、いかに見えるものを多くするか、という点にリンクしていたのかもしれない。
人は、見えるものをできる限り多くすることに、尽力を尽くしてきたといってもいいくらいだ。
反対に、見えざるものに対しては、一種の恐怖を抱く。未だ知らないものは恐怖の対象であり、また恐怖そのものでもある。化け物と置き換えてもよい。化け物は、普段(通常)は見えないものだからこそ恐ろしい。
従って、見えないものは恐怖に裏付けられた権威である。反対に、見えることも、一つの権威である。見えないことは、ある種の恥であり、不正であり、良くないことでもある(*1)。
「君には見えなかったのか?」 「見えない方がおかしいよ」
こんな言葉は、幾度も聞く。そのことが、見えること/見えないことの、線引き、またはそれらの断然を物語っている。
*1でさりげなく書いてしまったが、〈見える―良いこと、正しいこと、健常なこと /見えない―良くないこと、不正なこと、異常なこと〉 という風に、見える/見えない に、価値判断が従属していることである。見えない<見える、という不等号が一般的には成立しているようにも思われる。
しかし、こうした価値判断は、実に恐ろしいものである。それらの価値付けは、果たして根拠のあるものであるのか。理由あって正当化されている事柄なのか。
価値付け自体が、暴力現象に他ならないのだから、このことはよく考えなければならない。
「目」で見えるものを想像しよう。
ここに、普通に目が見える人と、いない人がいて、A地点とB地点、それから〈あまりそこなわれることのない自由〉があるとしよう。
二人は、A地点―B地点を往来したいという欲求と、自由をひとしく持っている
。このとき、目の見える人は、あまり不自由なく、A地点から出発してB地点にたどりつける。B地点に分かりやすい目印がある。
しかし、目の見えない人は、それほどうまくいかない。しかし、彼が何らかの能力でそこにたどり着く場合はある。
彼が超人的な能力を以てして、B地点にたどりつくのはよい。
しかし残念ながら、超人的能力というのは、普遍的ではないらしい(だから超人と言うのかもしれない)。 なるたけ目の見える人と「同じ」ように往来するためには、どうするのがいいのか?
一つの答えらしきものは、現代社会の中に見出だせるだろう。あたりを見回せば、視覚障害者のための期間や装置などは、いくつか制度化され、運用もされている。点字、点字ブロック、専用杖等々。
だがそれらが、いかに不便に使われているのかも、みおとされている。
「目の見える」人は、わがもの顔にそうした往路を行き来する。そうするのが、さぞ正しいことであるかのように。
これは、私も例外でない。平気で、点字ブロックの上に立っていたりする。
一つだけ取り出せば、地下鉄の設計はほとんどが酷い。点字ブロックの上を平気で踏みつけたりする私の態度とかもふくめて、地下鉄では、まるで健常者でない人はなるべく利用するな、とでも言いたげである。いったん健常者用/非健常者用のコースを分けた上で、しかもそれは必ずしも便宜的でないことを、再確認する必要があろう。
しかも付け加えておきたいのは、たいていの場合、そうした障害者システムは、「配慮」とかいう概念で設計されたりする。
配慮こそ、何か優越的な含み損をもっているし、上位/下位 の区別形成の前提に成り立っている気がしてならない。配慮と労りは似たようで、大違いである。後者は苦しみも共用しようとするが、前者はともすれば、ただの突き放しになってしまいかねない。
このように一例をとっただけでも、「見える」ことには暴力や権威がつきまとっていることが分かる。
見えないことは、負けであり、支配される側にからめとられる。
先ほどは、この見える/見えない に恐怖が働くといったが、これは、根源的な情念(純粋な恐怖を抱く、完全な暗闇にある種の不安や怖さを抱かないものはいないであろう)に加えて、こうした権威/暴力システムから由来する怯え、恐怖も
重なっていると思う。二重に仕立てられているのだ。
この二重構造の前に、あたふたして翻弄しているのが、今日の人間の実体であろう。
(続く
(2) 見えるということ
)
承前
(2) 宿命・予定説
宿命(しゅくめい)という言葉がある。 もともと、人生は決まっている、という観念である。
これは、日本人には馴染みがあるものだろう。少なくとも私は、そう考えている。
自分の人生についての一挙一足はあらかじめ規定されており、それに抗うこととかはあまり意味がない、ということ。
ここで、自由な意志という話題を引き合いに出せば、宿命はそれを否定することにはなる。
運命は自分で切り開くものだ、とする考えとは相いれないからである。
しかしそう性急にならなくても良い。二つくらいに場合分けが可能であろう。
一つは、宿命に対してその反抗を全く認めないもの。自分が生きることの全てが運命であり、それが落ちようが上がろうが、それにただ服従するしかないというもの。
もう一つは、基本的な所は不動=自分の意志では抗えないものの、一部は意志の自由に開かれている、という考え方である。
意志の自由と、宿命との両者を取り入れて、かつ後者を基軸としたものである。
2つ目は、いつが意志の自由に開かれている場面なのか分からない、という問題を抱えているにはせよ、無理が一番ない考え方かもしれない。
意志の自由という考え方は、すなわち、20世紀の最大の戦利品でもある。 実存主義と置き換えていいかもしれない。
近代が待ちに待った、意志の完全なる自由は、それは妄想に近い形でありながらも、それをめぐって動向を重ねたというのが、
20世紀であったということができるだろう。
1つ目の考え方を取ると、この意志の自由と全く相いれないものになってしまう。その点、2つ目の考え方は柔軟である。
抗えないとはどういう事柄を指すのであろうか。
これには、人間が己をどうとらえているかということと、強く関係している。
これについては、また後述することになるだろう。
宿命の考え方に近いものとしては、オーソドックス(古典的)ではあるが、宗教改革者カルヴァンの、「予定説」などがある。
人生は、生まれたときに予め規定されているとする説だ。予定説によると、人々はただその決められた道に従うほかない。
そして、ただ善行を積み重ねることによってのみ、救われるとするのである。
予定説は、おそらく当時のカトリック世界の不条理=現実と説示とが乖離している状態を、合理的に説明するのにも利するものであったのだろう。
お金持ちの人にはそうなる予定が、貧乏の人には貧乏の予定があるとするのである。
アジア的な宿命の観念にせよ、カルヴァンの予定説にせよ、大事なのは、決められたあるものに抗えないということである。
そこには、ある絶大なパワーが観念される。
その絶大な力には、私たち人間は抗う事ができない。まして、つかみ取ることなどできやしない。
そこには、人々の観念を超えた、その意味で超越論的な、不可解ともとれる何かがあるのである。
その得体のしれない何かを、面と向かって肯定するのが、宿命や予定説なのかもしれない。
この宿命は絶対なのかどうかは、人々によって様々であるだろう。
しかし、私は思う。 この世には、人の考えをもってしては到底達しきれない、宿命や予定説のようなものは依然として存在すると。
それは、科学技術や、人々の知恵がいくら発達しようとも、いや発達するからこそ、そのような不可解な深淵がますますポッカリと口を開けて我々の前に立ちはだかっているのではないか。
私はそのように、宿命のことを思う。
この得体のしれない宿命は、後に述べるように責任概念と大きく関わりあいをもってくる。
(続く
(3)責任の限界 ボート事故を例にとって
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