こんぱら! mistyです。
今日はもう一つ、なんか話をしたい感じなので、投稿しておきます*
@共時感覚
(1) 個人主義
「共時感覚」という言葉が存在するのか、あったとして学問的なステータスがあるのか、残念ながら勉強不足の私には分かりませんが、要するに「(他の)誰かと同じ時間を共有していると感じることのできる気持ち」です。
一緒に弁当を食べていて、「あ、おれは今コイツと一緒に飯食ってんだな」と思うその感覚の事です。
なぜそんな一見瑣末なことに思える事柄をテーマにするのかというと、この共時感覚というものは意外に奥が深いから。と私は考えています。
偏見だらけで、とても大雑把な社会の見方ですが、現代社会はある面に於いて、集団主義から個人主義へ移行しつつある(むしろ現代社会=個人主義である)と言われています。
つまりは、個人個人がそれぞれ独立―したかのように見える―して生活なりを送っていくことのできる、またはその傾向にある社会が現代的であるということ。
話を限定するため、日本にしましょう。
(2) 核家族、便利社会
何故、個人主義が台頭したか?
これを説明するのが、「核家族」というキー概念です。 よく説明されるように、以前の日本の家においては、子供ー親ーじいちゃんばあちゃんといったような、複合家族を単位として社会共同体が基礎されていた。 それが江戸時代の頃から、さらにはWW2後のブームともなった、子供ー親 のみで構成される家族が中心となった、という記述。
核家族の諸問題の一つとして、とてもあいまいなものではありますが、タテのつながりの希薄化がもたらされてしまった、というものがあると考えられます。まぁそれは、昔は一緒にいたかもしれないじーちゃんばーちゃんとは、別々の場所で生活をするだけで、密な関係性が築きにくくなるのは当たり前です。
複合家族から核家族へ、家族という人間にとって最も大きい存在である所の共同体の構成が縮小された。
さらに、世の中は「便利社会」となり、「ネットで何でもできる」というイメージからも伺われるように、比較的「1人で」生活することがより楽になった(推進された)。 「家」(=共同体)を作らなければならない!という束縛から離れ、文字通り「個人」として生きやすい時代になった。
人とのつながり、例えば親子の関係性も、未来永劫絶対的に必要なものではなくなり、ある種、手段的に対象化されるものになるでしょう。人間関係は、「必須事項」から「選択事項」へと移行しつつある。
(3) 共同体
しかーし! ここで私がちょっと待てよと言いたいわけです。
というのも、私は、人というのは本来的に、他人との繋がりを求めずには居られないという仮説を支持しています。
いくら個人主義がまかり通れど、厳密な意味でたった1人で生涯を形成していくことは客観的に不可能であるし、人数が多かれ少なかれ、人との関わり合いは必要になってきます。
そこには、「共同体に生きなければならない宿命」とでもいうようなものがあるのでしょうか。
共同体に生きることは必ずしも完璧とか、そういうことではないと思うのですが、例えば大きなメリットを挙げましょう。共同体、つまり複数人の人達で生活を送ると、そこには何かしらの「秩序」が生まれます。
例えば、「朝は最低でも8時に起きる」「ご飯は協力して作る」などです。
秩序は、役に立ちます。人を律し、全体を効率的かつ体系的にまとめあげていきます。
「オレは好きな時に寝て、好きな時に起きる! 勝手にやらせてくれ」 ← たぶんこんな人は、健康面でひどい目にあいますwww
早いが話、群れて暮らす、同じ時を過ごすのには、やはり歴史的に見ても、政治の観点からみても、なかなかの魅力があるということですね。
(4) 「我々は元々群れていたがそれが細分化され、そして再び結合しようとしている」
現代社会のイメージ、それはネットカフェのブースのような状況。 各人それぞれにはネット環境という素晴らしい利器が与えられ、それぞれはブースという単位で区切られ、互いに干渉することなく、「個人」での楽しみを追求することができる…。
人は、ちりぢりになっているように見える。
しかし大切なのはここからで、そのちりぢりになった所で人々がネットに夢中になっているのは、ツイッターやSNSだったりするわけです。
つまり、ネットの向こう側にも、匿名性の皮を着た、生身の人間がいるのは分かり切っているはずで、結局そのベールを包んだままの存在と戯れる。 ブースで区切られ「個人」を手にしたはずの現代人は、しかし、終局的には再び「集団」を求めているということ。
これが、現代社会の生の姿、なのではないかなと思います。
「集団」から「個人」へ、そして再び「個人」から「新しい形の集団」へ…。
私たちは個人主義にどっぷりつかっているわけではなく、「集団」と「個人」の間を行き来する、中々不安的な存在であるのではないでしょうか。
(5) 共時感覚
ツイッターTwwiterでは、各人の瞬時のコトバ(=「ツイート」と呼ばれるものです)が、時間軸(「タイムライン」と呼ばれます。)に沿ってリストアアップされていきます。 あの人がこの時間ああゆうことを発言したかと思えば、この人はこの時間にそんなことを思っている、それを俯瞰的に眺めることのできるのがツイッターです。
ツイッターでは、「この人と同じ時間を共有している!」という想いを大変強く感じさせられます。1人家に帰宅して寂しいと思っても、パソコンのふたを開ければ、そこには姿こそ見えないけど大切な友人やタレントが「生」を送っているらしいという生の現実が、ありふれています。
1人でも、複数人の存在をより身近に感じることができる。実はこのポイントこそが、ツイッターブームを支えている最大要因なのではないか、と私は考えています。まぁこれは余談ですが。
それは、いわゆる共同体チックな、それでいて形式的には「1人」で行えるとても利便性のある、体験です。「集団」と「個人」を程良く両者とも味わえる。
共時感覚は、人を支えるきっかけになりませんか? 例えば勉強を1人でしていて、どうもはかどらない。そんな時、周りにいる友達が同じように必死に勉強している姿を見て、「あぁ私も頑張らなくっちゃ!」と起動力をもらうきっかけになります。
それはおそらく、共同体生活が生み出す秩序からさらに派生された、「共時感覚の安心感」とでも呼べるものです。私一人ではない、私だけが存在しているのではない、確かに近しい存在が私の周りにもいるんだ…。こう感じることで、人は無意識的に安堵をおぼえる節がある、と私は考えています。そしてそれはごく普遍的なことです。
「個」がやたらと強調される社会風景だからこそ、共同体、共時感覚のようなどこか懐かしいようなものがとても貴重に思えてくる。
これからも、共時感覚の存在は益々脚光を浴びることになるだろう、と、本文を以て指摘ができました!
はい、終わり♪
misty @
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